「黒い時計の旅」と「TAKESHIS'」


エリクソン先生の「黒い時計の旅」、すごくおもしろかった。どこがおもしろかったって、仮にドイツが戦争に敗けず、ヒトラーが死んでいなかったら…という想像力がすごいというわけではなく、たとえば19章目の、時計の文字盤に堕天使が這い上がってくるうんぬんといったようなエモーショナルだけど説明不足でなにが言いたいのかよくわからない文章がちょくちょく出てきて、(こんなに自分勝手な語り手が、本当に伏線を回収してきちんと語り終えてくれるんだろうか)とハラハラさせられつつも、最終的にはそれなりに話をまとめて終わってくれたところがおもしろかったんじゃないかと思う。たぶん、普通にわかりやすい文章で、きちんと伏線をはってきちんとそれを回収していかれたら、こういうおもしろさは得られなかったはず。歴史考証がぼんやりしていても、語りの勢いでスケールの大きそうな話を作ることに成功している(ように思える)ところも魅力的だし、ジェーンライトがジェーンライトの二十世紀でゲリの幻を抱くとき、もう片方の、ゲリの二十世紀でゲリが目に見えない誰か(ジェーンライトだけど)に抱かれているという律儀さにも好感が持てる。どちらの二十世紀も幻ではなく現実、というところがよかった。「それはお前の二十世紀での出来事だ。おれのではない」とか日常生活で絶対に口にしないフレーズだなあ……

ところで「TAKESHIS'」、この映画のわりと最初のほうで、ビートたけしが「頑固なラーメン屋がゾマホンだったらおもしろいよな」と言って隣で京野ことみが笑うというシーンがあって、そこで(ラーメン屋がゾマホンだったらってぜんぜんおもしろくないな)と思ってしまった。なぜおもしろくないなと思ってしまったのか、その理由はよくわからないし(いや、もしかしたら小さい頃から繰り返しみてきたダウンタウンのコントや吉田戦車の漫画がなによりもおもしろいという意識が勝手におれの中で作られていて、たまたまラーメン屋がゾマホンというギャグのパターンがダウンタウンのコントや吉田戦車の漫画のギャグのパターンに当てはまっていなかっただけなのかもしれないが)、ゾマホンだったらおもしろいと共感できた人もいたはずだけど、とりあえずこのギャグがつまらなかったということにする。この映画にとって、ビートたけしのギャグがつまらないこと、もっと言うと、ビートたけしがつまらないギャグを言っているのに映画の中で誰も「つまらないぞ」と言わないことはすごく問題だと思う。
映画の内容が、ビートたけしの今の地位は簡単に揺らいでしまうものではないのかというようなぼんやりした主題を中心に、岸本加代子がずっとビートたけしをののしっていたり、売れない役者のたけしがビートたけしを刺しに来たりするという、すごくひらたく言えば自分を批判的にみつめてみた、というようなものなのに、自分のギャグのつまらなさについてはまったく批判的にみつめることができていないことが問題で、自分の人生などについてはみつめなおすことが可能なのに、自分のギャグがおもしろいかおもしろくないかについては自分で判断することができないという事実を目の当たりにしてすごく怖くなってしまった。
本当は、今の自分の地位をみつめなおす以前に、自分のギャグがおもしろいかおもしろくないかをみつめなおし、岸本加代子に「べつにおもしろくないぞ!」と叫ばせるべきだったんじゃないかと思える。
あと、いちいちたけしが目覚めるシーンが出てくるのも本当につまらないと思うんだけど……夢か現実かなんてどうでもよくて、「黒い時計の旅」みたいに、両方現実の人生として描いてほしかった。冒頭でアメリカ兵に狙われるたけしが登場したときはけっこうわくわくしたのに。アメリカ兵に狙われるたけしが、たけしの父親だったとしたら、あそこで終わっていたかもしれない人生と、終わらなかった人生がまずあり、そのあともいくつもの分岐点があって(たとえばバイクで事故を起こす人生と起こさない人生とか、フライデーを襲撃する人生としない人生とか)、それぞれが現実のたけしとして登場してきたら魅力的な映画になったかもしれない。あと、たけし軍団というものがあって、その軍団のメンバーから殿と呼ばれていることや(殿と呼ばれる人生と呼ばれない人生、のほうが迫力があるんじゃないか。あと、北野先生の映画にはよくヤクザが登場するけど、「組」じゃなくて「軍団」って冷静に考えるとけっこうおもしろいと思う)、たけちゃんマンというキャラクターがあったことも映画に盛り込んだほうがよかったような気もする。映画の中のビートたけしが、あくまでも虚構のビートたけし、という存在におさまっているところが物足りないので、実際のテレビタレントとしてのビートたけしとして映画にも登場してほしかった。そのほうが、ぼろぼろのアパートに住むたけしにももっと切羽詰った感じが出たんじゃないかなと思うから。映画は映画だけで成立していなければ普通はおかしいけど、この映画はテレビタレントとしてのビートたけしのイメージが存在しなければ絶対に成立しない性格のものだと思うので、たぶんそれくらいしてもいい。
人生におけるいくつかの分岐点の、もう片方へと進んでいった自分たちがそれぞれにその道を歩み続けてある時ふと顔をあわせるというドラマは、いまのこの自分が夢の自分か現実の自分かわからないというドラマよりもずっと魅力的に思えるけど、その理由も、なぜギャグがおもしろくないと思ったのかわからないのと同じように説明するのはむつかしい。ただ、そうして何人ものたけしが集まってそれぞれの位置に立ち、それぞれが輝きだして空に舞い上がり星座を形作ったなら、感動して涙を流したかもしれない。