ココロ社さんへ

id:kokoroshaさん、ぼくの書きかけの小説を読んでくださって本当にありがとうございます!そもそも、ネットでココロ社さんの「赤い魚の子」や「危険な海の生き物たち」という小説をみつけて読んだことがきっかけで、小説のおもしろさに興味を持つようになったぼくにとって、これがどれほどうれしいことか、どうすればこの気持ちを第三者に伝えることができるのか……きっと「世界ナントカ協会の恐ろしさ」や、いま書かれている東京タワーについての小説を読めばそのすごさ、ココロ社さんの小説がとてもおもしろいというすごさと、そのすごい小説を書く人に取り上げられたことのすごさが同時に伝わるのではないかと思います。要するに、この気持ちを伝えたいというか、ものすごく自慢したいし、間違いなくこれは自慢できることだけど、いまこの文章を読んでいるひとにその自慢が伝わらなかったらばかみたいで困るということです。

その小説のおもしろさに興味を持つようになったきっかけ、ココロ社さんの小説をはじめて読んだのは、はっきり覚えていませんが一年くらい前だったと思います。そのときぼくはヌーボーロマンというものをまったく知らず、ココロ社さんの小説から感じられた、ちょっと他の小説とは違う、変わった印象と、ココロ社のノートに取り上げられていたロブグリエ先生の話題などを通じて、なんとなくヌーボーロマンというものに興味を抱くようになり、「迷路のなかで」を読んでみたのですが、その幾何学的描写というもののおもしろさが、理屈としてはわかるのにどうも楽しめず、ロブグリエ先生の他の作品を読む気にもなれず、「迷路のなかで」を読んだだけで、(ヌーボーロマンはだいたいわかったから、これを真似して高級感を出して、そのうえで笑えるものを書こう)と考え、「デンジャラス・ツアー」という小説を書き始めました。ここで言う高級感というのは、ココロ社さんが指摘するように、「あらすじを読むだけで読んだ気になってしまえたり、ネタばれしただけで読む気がしなくなったりするような」ものとは反対のもの、というような意味ですが、もっと自分に正直になってみれば、ひとことで言えてしまうようなメッセージ(だれかを愛することは素敵なことだ、とか)を、わかりやすい文章で書いてしまうと、すごくまともなひとだと思われてしまう。そんなのじゃなくて、おれはもっとクレイジーなひとだと思われたいんだという気持ちであり、その気持ちは、たとえば小学生のときに「伝染るんです」を読んで、おれは他のクラスメイトよりもひねくれた笑いのセンスを持っているんだと思いたがっていたのとほとんど同じもののような気もしますが、それはまあいいとして、とにかくロブグリエ先生の真似をしながら、もっと笑えるものを、と思って小説を書いていました。

小説を書いている最中も、何冊か小説を読んでおり、読む小説を選ぶ基準はやはりヌーボーロマンと呼ばれる小説からなにかしらの影響を受けていると考えられそうな小説、というものだったのですが、最近ヌーボーロマンそのものの、「フランドルへの道」を読み始めて驚きました。クロードシモン先生の書く文章が、まさに「ロブグリエ先生の細かい描写をもっと笑えるように書く」といった印象だったからです。こんなことを言うとかなりおこがましいですが、「フランドルへの道」を読みながら、ああこれおれも書きそうだなと思ってよろこんでいるわけです。それと同時に、ああこれココロ社さんも書きそうだなとも思っていて、つまりぼくが文章を書くときに、それがおもしろい文章かそうでないかを考える基準がココロ社さんも書きそうかそうでないか、というものになっている、それくらい強く影響を受けた書き手に自分の書いたものを読んでいただけたことがどれほどうれしいことかと、ただもうそれだけをいま言いたくて仕方ないです。これからがんばって続きを書こう、というやる気が出てきました。あとがんばって「フランドルへの道」の続きを読もう、とも思いますが、読んでいるその一文一文はかなりおもしろいけど全体的になにが書かれているのかがはっきりわからないところがあって、そこは仙田学先生の小説とも繋がるような気がするけど、できればはっきり話の内容がわかりつつも、一文一文がおもしろい、そんな小説にしたいし、そんな小説にしないとあんまり読んでもらえないんじゃないかなと思います。