外套

文芸漫談でちょうど「外套・鼻」の話者のことが取り上げられていて、そこで話者の存在感を消すような書き方のほうが小説として進歩しているかというと、決してそんなことはないんじゃないかといったようなことが書かれていたので、立ち読みしながら(そうだ!今こそ話者の存在感を押し出していくべきだ)とジュンク堂のレジの前で思いました。

この官吏の姓はバシマチキンと言った。この名前そのものから、それが短靴に由来するものであることは明らかであるが、しかし何時、如何なる時代に、どんな風にして、その姓が短靴という言葉から出たものか――それは皆目わからない。父も祖父も、剰え義兄弟まで、つまりバシマチキン一族のものといえば皆が皆ひとり残らず長靴を用いており、底革は年にほんの三度くらいしか張り替えなかった。彼の名はアカーキイ・アカーキエヴィッチと言った。或は、読者はこの名前をいささか奇妙な故意とらしいものに思われるかもしれないが、しかしこの名前は決して殊さら選り好んだものではなく、どうしてもこうよりほかに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することが出来る。

こんな風に、読者に向かって話者が語りかけてくるが、話者であって作者ではなさそうなところがポイントではないか。名前の由来や、一族が長靴を用いていることなど、かなりバシマチキンについて詳しい話者だけど、作者としてバシマチキンという人物を創造したのでなにもかも作者である私は知っているし思い通りだという立場ではないところが、読んでいて楽しいように思える。「アカーキイ・アカーキエヴィッチ」のような、藤子不二雄のマンガみたいな名前も、作者の気分でつけたのではなくて、事情があってそういう名前になったことを話者がよく知っていて教えてくれる。こういった話者の立ち位置から小説を書くと、登場人物について、小説内のお話の時間の経過にそった行動を描写するのに加えて、一族の話とか名前の由来とかおもしろく脱線することができて便利だし、ウソはウソなりに、いかにも作者の勝手で作り出した登場人物というよりは、人物がイキイキして楽しいような気がする。

こんな仕立て屋のことなどは勿論多くを語る必要はないのであるが、小説中の人物は残らずその性格をはっきりさせておくのが定法であるから、やむを得ず茲でペトローヴィッチを一応紹介させて貰うことにする。

……だが、読者は先ずその最初の半額が一体どこから手に入るのか、それを知っておく必要がある。

小説中の人物はうんぬんとか、読者は先ずとかは、自分がまねするときには省いてもいいかなと思うけど、省きながらも、「それを知っておく必要がある」のあたりは残しておくと、誰がなんのために必要があるんだと思わされてなかなかオツかもしれないけど、ただへたくそな文章だと思われる可能性は高い。
このアカーキエヴィッチについてかなり詳しい話者が、一箇所アカーキエヴィッチのことをわからないというところがあって、そこがとてもいいと思う。

彼はもう何年も、夜の街へ出たことがなかったからである。彼は物めずらしげに、或る店の明るい飾窓の前に立ちどまって一枚の絵を眺めた。それには今しも一人の美しい女が靴をぬいで、いかにも綺麗な片方の足をすっかり剥き出しにしており、その背後の、隣室の扉口から、頬髯を生やして唇の下にちょっぴりと美しい三角髯をたくわえた男が顔を覗けているところが描いてあった。アカーキイ・アカーキエヴィッチは首を一つ振ってにやりとすると、また目ざす方へと歩き出した。一体なぜ彼はにやりとしたのだろう?まだ一度も見たことはなくても、何人もが予めそれについて或る種の感覚を具えているところの物件に邂逅したがためだろうか?それとも、ほかの多くの役人たちと同じように、《いや、さすがはフランス人だ!全く一言もない!何か一つ思いついたが最後、それはもう、実にどうも!……》とでも考えてのことだろうか?いや或いはそんなことも考えなかったのかもしれない。何しろ他人の肚の中へ入りこんで、考えていることを残らず探り出すなどと云うことは出来ない相談である。

アカーキエヴィッチが外套を新調するために節約して節約してようやくあたらしい外套が出来上がった直後に、その外套を着て外出するこの部分には、それまで出てこなかった「美しい女」が登場するし、それまでほとんど笑ったことがなかったアカーキエヴィッチがにやりとするし、それまでアカーキエヴィッチのことにかなり詳しくて、それなりに心情についても語っていた話者が急にわからないと言い出すので、印象に残るようになっていて、この華やかな夜の部分がしっかり印象に残るから、アカーキエヴィッチが突然襲われる部分との落差が出ていると思う。この小説の話者にすごく魅力を感じたのは、このやたら詳しかったり、突然わからないと言い出したりする、一定しない語り方で、ずっと語りが前に出ているわけではなくて、存在感を薄くしたりまた濃くなったりして読者を飽きさせないし、作者としても飽きずに書ける方法なのかもしれない。あと、描写の量も、これくらいがちょうどいいように思える。小説を書こうとするとき、ちょっと前の俺ならこういう場面なら一枚の絵についての描写をひっぱっていって忘れた頃にアカーキエヴィッチの話に戻して、どうだ、という感じにしてしまいそうだけど、そういうのにも飽きてきた。一気に書き上げずに、だらだら放置したままたまに思い出したように小説を書いたりしていると、自分の好みも変わってくるのでなかなか完成しない……
「外套」みたいな話者を使って、小説に登場する人物の過去とか一族の話とかウソの史実とかを盛り込んでみたいし、あと登場する人物も、「外套」みたいな全然ぱっとしない人ばかりが登場してそれぞれにぱっとしないことを考えながら生活しているけど、話者によって大げさな史実や一族の過去などがどんどん持ち込まれて、話が直線的にゴールを目指すのではなく螺旋を描くように盛り上がっていって終わるような設計にしたいと今思った。