エクリチュールのアヴァンチュール

阿部和重先生の『シンセミア』を読み終わったぜ。
「俺の息の根を止めてしまうほどに強烈な毒ガス」だったぜ。読んでいてくらくらする面白さだぜ、まったく。
『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』で渡部先生がこんなことを言ってたんだ。

三人称多元は主人公がたくさんいなければダメ。大きなスケールでストーリーを動かそうとしたらこれですよ。でも現在の状況では、三人称多元は書きにくいですから、よほどの必要がないかぎりやめたほうが無難ですね。

シンセミア』ってのは、三人称多元を用いて大きなスケールでストーリーを動かすお手本として『それでも〜』に加えられるべき作品だよな、まったく。
内容的にも勿論面白いんだけどよう、形式というか文章自体に興味が沸いたぜ。
高橋源一郎先生も、蓮實重彦先生も、『シンセミア』の中の「口語」を気にしてるんだから。

「要するに、デカい屁(へ)みたいなものだ」
 この一点、これは巨大な近代的構築物に開けられた、いわば「口語的自由」の窓なのだ。そして、あちこちに開けられたこの種の「窓」は、『シンセミア』全篇に、かつて読んだことのない自由な感じを与える。阿部和重は、いつの間にか縛りつけられていた近(現)代小説を、その軛(くびき)から解き放つ手段を見つけたのである。
(高橋先生)

例えば、「町のどこかがぶち壊れているにちがいなかった」という何気ない一行がそうであるように、抑制ではなくちょっとした過剰が『シンセミア』の文体にぶっきらぼうな口語調をまとわせることになるからだ。それは、なだらかな文語に終始することであまたのノスタルジーを生きのびさせてしまう一世代上の流行作家たち―あえて『パン屋襲撃』の作者と名指しはしまい―には到底真似のできない阿部和重ならではの荒っぽい芸当である。(蓮實先生)

両先生でなくっても、『シンセミア』を読めば誰でもその「口語」に気づくだろ、なあ。だって読んでて車酔いみたいな気分になったんだから。まあその気分が気持ちよかったんだけどよう。
シンセミア』では、冒頭の「田宮家の歴史」における「ジャーナリストのエクリチュール」と呼べそうな文体から、先生方が指摘してるような「屁」や「ぶち壊れる」「ぶっ殺す」なんていう口語表現、それに対して口語ではありえないような難しい漢字とか、あと突然陳腐な比喩が並べられたりとか、とにかくエクリチュールが揺さぶられてる。おまけに所々文字が太字になっていたり、フォントの大きさ自体を変えてたりと、とにかく揺すぶるんだよ。
エクリチュールを揺すぶるって話の前に、そもそもエクリチュールってなんだよ。

例えば、中学生の男の子が、ある日思い立って、一人称を「ぼく」から「おれ」に変更したとします。この語り口の変更は彼が自主的に行ったものです。しかし、選ばれた「語り口」そのものは、少年の発明ではなく、ある社会集団がすでに集合的に採用しているものです。それを少年はまるごと借り受けることになります。(・・・)「エクリチュールとは、書き手がおのれの語法の『自然』を位置づけるべき社会的な場を選び取ることである」とバルトは書いています。(内田樹先生『寝ながら学べる構造主義』)

なるほど。本当にこの『寝ながら〜』は説明の手際が良くて、読んでて楽しいな。で、なんでエクリチュールを揺さぶらなきゃならないかって話だよな。ロラン・バルト先生の夢は、「エクリチュールの零度」、つまり「願望も禁止も命令も判断も、およそ語り手の主観の介入を完全に欠いた、『まっしろなエクリチュール』のこと」(内田先生)らしいんだよ。でもさ、結局その夢ってのは不可能なんだよな。バルト先生は「理想的な文体」としてカミュ先生の『異邦人』を挙げてるけど、そのカミュエクリチュール自体制度化してしまうんだからよう。
もうひとつ「エクリチュールの零度」に関する話をするとさ、ジャック・デュボア先生が『探偵小説あるいはモデルニテ』の中で、探偵小説っていう「発見=解明型」のはめ込み方式によってエクリチュールの透明性を操る事ができるんじゃないかって指摘してるんだ。でもそれは見かけ上のものにすぎないわけだよ。ポール・オースター先生は『幽霊たち』でその「はめ込み式」を利用してエクリチュールの透明性を手に入れようとしてるみたいなんだけど、まあ、なんていうか、そんなに透明とは思えないわけさ。
じゃあこの際エクリチュールで遊んじゃおうぜ。
で、どうやってエクリチュールで遊ぶかっていうと、「はめ込み式」を使って、一つのエクリチュールに限定して書くんじゃなくていろんなエクリチュールを合体させていったら面白いんじゃないかってことになるんだよ。実際阿部先生も「広告批評」での高橋先生との対談で、「レゴブロックみたいに組み立てたい」って言ってたし、だいたいそんなようなところを狙ってると思うぜ。
ここで最初の方に言った「三人称多元」って形式が活きてくるんだよな、うん、活きてくるに違いないぜ。
だから結局なにが面白いかっていったら、「エクリチュールの零度」よりも「多元エクリチュール」のほうが気持ち悪くてぞくぞくして面白いぞってことだぜ。
問題はさ、『シンセミア』くらい長ければいいけど、中途半端な長さの小説で同じ遊びをすると、ただのヘッタクソだと思われちまうんじゃないかってことだ。いわゆる「美文」じゃないからな。短い小説で似たような遊びをしてるのが中原昌也先生じゃないかと思うけど、ちゃんと読んでないからわかんないぜ。
まあ、とにかく誰が話そうとかまわないじゃないかってことだ。だから『シンセミア』では鼠まで話してる。みんなトゥギャザーしようぜ!トゥギャザーしてエクリチュールのアバンチュールしようぜ!
そうだよ俺がルー大柴だ!