放屁和尚

ついでに屁の話で思い出したんですけど、「屁」っていうと禅の和尚さんが屁をこきながら「喝!」って言ってるイメージが浮かぶんです。
なにかなこのイメージとずっと考えていたら、その原因は新宮一成先生の『ラカン精神分析』の「解釈のソニックブーム」の中にありました。

論理の壁を破るには音速を超えればよいのである。音速を超えるとき、ソニックブームが起こる。飛行機は、自分が作った音の波動を自分の周辺に持っているが、その波動の囲みを自分自身が破るとき、激しい衝撃音が出る。これがソニックブームである。自分の思考、論理、言語よりも速く動く主体は、ソニックブームを引き起こす。

この部分に、さらに別の断片のイメージが加わります。

ある日、分析中に、ある男性がトイレに行きたいと言った。彼は過去の想い出を話しているところだった。

分析における「せき立て」としての尿意という話なんですが、ここで「排泄物」のイメージとさっきの「激しい衝撃音」が混ざって、「激しい衝撃音=屁」となります。そしてさきほどのソニックブームの話の後に、禅問答の話が出てきていました。

ラカンが短時間セッションを禅と比較したのも、意味ではなく音としての声によって、禅の問答は打ち切られるからだ。祖師の「喝!」は、ソニックブームに他ならない。

この「喝!」のイメージがとどめとなって、「『喝!』と叫びながら凄い屁(ソニックブームのような)をする和尚さん」→「放屁和尚」というキャラクターが生まれる事になったようです。

作品を読む者は、ある部分を読みとばすことによって削り取り、ある部分は書かれていない言葉を読むことで、何かを書き足していることになるのだとすれば、作者と呼ばれている者だけが作品を書くわけではなく、読者もまた作品を作ることになるだろう。

これは金井美恵子先生の『プラトン的恋愛』のあとがきですが、バルト先生の『テクストの快楽』の考え方ですよね。
「ある部分を読みとばすことによって削り取り、ある部分は書かれていない言葉を読むことで」出現するものが例えば「放屁和尚」なのでしょうか。違うかな。
でも「放屁和尚」ってなんとなく面白いからどこかに登場させてあげたいと思います。