ぼくの日常がどんなものなのかはよくわからないけれど

塾のアルバイトが終って、とりあえずは一息つけるかと思ったりしたのだけれど、銀行の課題が締め切り直前だったりして、融資業務やら株式やら証券やらに苦戦していた。
「短プラ・長プラ」なんて言葉が出てきて、何の略かと言うと「短期プライムレート・長期プライムレート」らしいんだけれど、そもそも「プライムレート」というのがなんだか分からなくて、どうしても「プラスチック」とかそんなのを思い浮かべてしまう。「普通手形貸付(略称、普手貸)」とか、「証書貸付(略称、証貸)」とかいちいち略称が出てくるのが面白かったりもするんだけれど、それはまあどうでもよくて、とにかくぼくは銀行の業務について何もわからないままだ。
わからないまま解いた課題を郵便局に持っていくのが遅れたせいで、すごく慌てたりしたけれど、なんとか翌日の朝十時に届くというのがあって助かった。
それでまあ、落ち着いたのか落ち着いていないのかはよくわからないけれど、保坂和志先生の『プレーンソング』を読んだ。

ほんの少しのことなのだけれど、ゆみ子の声は前よりも低くて太くなっていて、それが聞いているこちら側に安定感のようなものをつくり出しているのだと思った。そう思ったのが歩きながらのことで、たとえばコンビニエンス・ストアの中なり部屋に戻ってからではなかったのは、途中にある桜の木蕾を見て、それが大きくなったと思ったのと同時だった記憶が残っているからなのだが、それはまあどうでもよくて、三年という時間がゆみ子の声の質に確実に形となっているのと、三年経ってもゆみ子の話の流れや考え方が少しも変わっていないと思っているのが、ぼくとゆみ子のつき合いの長さをあらわしていて、それを軽い幸福のように感じている自分というのは、おそらく二十代前半までの自分にはなかった部分なのだろうと思った。(20)

読み始めて20ページ目のこの部分にこの小説の特徴がよく表れているのではないかとぼくは思った。これより前の部分に「セブンイレブン」や「ファミリーマート」といった固有名詞が出てきているけれど、それはあくまでも「コンビニ」ではなく「コンビニエンス・ストア」と呼ばれていて、それがこの小説の言葉遣いなんだろう。
あと、「それはまあどうでもよくて」もこの小説の特徴だし、なにより「けれど」というのが鍵になるような気がした。「〜けれど、〜けれど、それはまあどうでもよくて〜」という感じで、「ぼく」の考えていることがあっちへ行ったりこっちへ行ったり宙吊りのまま書き記されていく。
さらに言えば、「ぼく」という一人称や「けれど」は、村上春樹先生を思い起こさせずにはいなくて、たとえば高校生の頃春樹先生の小説を一通り読んだぼくは、「春樹ウィルス」のようなものにかかり、まあ深いところまでは読み取れていないからごくごく表面的なところで、一人称が「ぼく」になり、なんとなく無口になり、相槌を打つ時には「そうかもしれない」なんて言ってみたりしていたと思う。
保坂先生は「ぼく」、「けれど」などを用いる事で、表面的な「春樹ウィルス」にわざわざかかってみせているのではないだろうか。
仲俣暁生先生の『ポスト・ムラカミの日本文学』に次のような記述がある。

保坂和志が先行する戦後生まれの作家たちを強く意識していたことはあきらかです。そもそも、小説に存命の現代作家の名が出てくること自体が異例です。そういう意味でこれは小説というよりもメタ小説、あるいは小説のかたちをした「批評」だったのだと思います。

小説に出てきた存命の現代作家とはもちろん「村上春樹」。
『プレーンソング』は、「春樹ウィルス」にわざとかかりつつ、それを超えようという試みのようで、そういうのはすごくかっこいいことだとぼくは思う。
じゃあどうやって超えるのかという話になるのだけれど、それについて考えるためにもう一度『プレーンソング』から引用したいと思う。

戦争が終って十年かそこらで生まれて、東京オリンピック大阪万博札幌オリンピックがそれぞれ一つの時代の区切りのようにしてあって、大学に入ると学生運動残りかすが意外に大きいのかやっぱり小さいのか計測しがたいものとしてあって、中上健次芥川賞をとるまで「戦後生まれには文学はできない」などと言われ、つねに日本や世界の大状況が出来事の中心にあるように言われていて、どうしてもそこから何かを考えることしかできなかった、というかそういう風な言い方しか学習できなかったのだけれど、ぼくたちから十歳も年下になると、全然違うことからいろんなことを考えていくことができるようになっている。(180-181)

「大状況」から何かを考える事は、いわゆる「大きい物語」で、「全然違うことから」考えるのが「小さい物語」になるのかと考えるのは、糸井重里先生の『家族解散』の解説の中で高橋源一郎先生がそういう風な話をしているからで、高橋先生の言葉を借りれば「大きい物語」=(歴史でも、神話でも、戦争でも、革命でも、何でもいいです。個人の背丈を超えたものならどれでも構いません)、「小さい物語」=(自分史、心理、セックス、内面、内面の内面、内面の内面の内面、以下省略)ということになるのだけれど、高橋先生は「大」も「小」も飽きられてしまって「中」しか残らなかったと言っていて、その「中」というのは「家族小説」だということらしく、その「家族小説」の特徴として、

  1. 「曖昧模糊とした」日常生活
  2. 「些細なもの、あるいは出来事」の登場
  3. 見かけはあまり変化していないがどこか変わったような気がする「曖昧模糊とした」日常生活

という三つの順番を指摘していて、高橋先生はここでジョン・アップダイク先生の小説を例に挙げているのだけれど、例えば川上弘美先生の『蛇を踏む』だって、「蛇を踏む」という「些細な出来事」から日常生活がどこか変わっていく物語だと言えるのではないかと思う。じゃあ『プレーンソング』はどうかと言うと、極力変化の契機としての「些細なもの、あるいは出来事」を避けているように思える。
「些細なもの、あるいは出来事」を使うのは、すごく「文学的」で、お手軽なやり方、つまり結構簡単にできてしまうことなのだけれど、それを使わずに小説を書くことはなかなかむつかしい。『プレーンソング』の中で、いつもビデオカメラで撮影をしているゴンタという青年がこんなことを言っている。

映画見たり、小説読んだりしてても、違うことばっかり考えてるんです。
それでも、高校の頃からずっと小説書きたいって思ってて、今は映画撮りたいって、思ってて。
でも、筋って、興味ないし。日本の映画とかつまんない芝居みたいに、実際に殺人とかあるでしょ、それでそういうのから取材して何か作ってって。そういう風にしようなんて、全然思わないし。バカだとか思うだけだから。
何か、事件があって、そこから考えるのって、変でしょう?だって、殺人なんて普通、起こらないし。そんなこと言うくらいだったら、交通事故にでもあう方が自然だし。
日本のバカな映画監督なんか、人間はそういう事件と背中合わせに生きてる、みたいなこと言うでしょ。でも、そういう人たちの映画みてても、どこが背中合わせなんだろうって。それに、もともと普通の人じゃないしね。出てくるのが。
そんなんじゃなくて、本当に自分がいるところをそのまま撮ってね。
そうして、全然ね、映画とか小説とかでわかりやすくっていうか、だからドラマチックにしちゃってるような話と、全然違う話の中で生きてるっていうか、生きてるっていうのも大げさだから、『いる』っていうのがわかってくれればいいって(207-208)

『プレーンソング』が目指してたことはこのゴンタくんの言葉ではっきりと言い表されているような気がするし、実際にゴンタくんが考えることは一つの理想としてあったりする。日常生活を日常生活として書くことで、春樹先生を乗り越えようとしているみたいで、その結果、読み終わったときに何も残らないというか、読んでいる間「ぼく」や「ぼく」の部屋に住み着いているアキラやよう子や島田と同じ時間を共有して、また自分の日常に戻っていくような感覚だけが残るという気持ちのいい小説になっている。
ただ、自分の部屋に三人も勝手に住み着いているのに平然と暮らしているなんて、どこが「普通の日常」だよ、なんて疑問も浮かぶかもしれないけれど、まあその辺りは、保坂先生がこの後の作品でどう処理しているのかと楽しみにしながら読んでいけばいいんじゃないかと思う。
この「日常を日常のまま描く」というのはとても魅力的なのだけれど、これはもう保坂先生にお任せするとなると、ぼくはこれからどんな小説を書けばいいのかわからなくなる。
それなら、時間の流れにもっとムラのある物を書いたら面白くなったりするだろうか、「物語」から離れようとする保坂先生のようなやり方と、「物語」を過剰に取り込むことで「物語」に対して批評的になるやり方とをあわせた物を目指してみてはどうかと思ったりする。こういうのが『おれたちの時』のやり方なのか、どうなのか、それはまあどうでもよくて、この小説を読んでいて一番面白かった台詞は、「あ、ゴダール」だった。この「あ、ゴダール」の一言で、現実と小説との折り合いをどのあたりでつけるとおもしろくなるのか考えさせられたりして、それもまあどうでもよくて、そろそろ簿記三級の勉強に取り掛からないといけなかったりする。仕訳のルールがやっと飲み込めてきたというのんびり具合なので、きっとぼくは試験に落ちてしまうだろうけれど、それもまあどうでもよかったりする。