スープに例えてみますけど、どうだ上手い喩えだろうとか言いません

話がちょっと戻って、戻ってないかもしれませんけど、いつだったか日経新聞の文化面に、若い作家が文学賞を獲っていることについての記事がありました。そこにはたしか、「物語批判などの難解さはない、瑞々しい作品」といったようなことが書かれていたように記憶します。もっと前には、阿部和重先生と島田雅彦先生を取り上げて、「物語の復権」みたいな記事が書かれていました。阿部先生、島田先生の場合はいいんですが、若い作家が「物語批判」などの流れを単純に知らないのだとしたらそれは問題があると思います。まだ受賞作を読んでいないのでなんとも言えませんが。ああ、『黒冷水』は読みました。今『ドン・キホーテ』をやることに自覚的なら大丈夫だと思います。最後のほうでチャゲアンドアスカを引用してきたあたりに未来が感じられるとも思いました。
話を戻します。「物語批判」を知らないのは問題で、「物語批判」を通過した上で書くべきだと思います。で、スープに喩えるんですが、どうせなら具沢山のスープが飲みたいとおもうわけです。で、最初は「あ、にんじんだ」とか「たまねぎだ」とか「じゃがいもも入ってる」とか具材がはっきりとわかるようになっているスープがあります。でも煮込んでいくうちに、具材はだんだんとその形を失っていきます。その具材が形を失ったおいしいスープを飲みたいし、そのような作品を読んだり聴いたりしたいと思っています。
例えば、バッファロー・ドーター先生の『シャイキック』の一曲目、「サイクリック」の詞に「書き込みのない真っ白な世代」とあります。コーネリアス先生もバッファロー・ドーター先生も最近急に「真っ白な」感じを目指し始めたようですが、両先生とも多くの音楽を聴いてきたから今があるわけで、たいして音楽も聴かずに作られた曲がいくら「真っ白だ」といったってあんまりおもしろいとは思えません。
それと、もうそろそろ「一からの新しい状態」とか「全くの自由な状態」などを「白」のイメージで捉える事自体、古臭くなってきてもいいころではないでしょうか。