金井美恵子先生の跳躍力

やっと『岸辺のない海』を一通り読み終えた。一度読んだだけでは面白いところをいろいろ見落としていそうだけど、とりあえず感想を書く。ぼくの感想は渡部直己先生のものとほとんど同じ。

何かを言葉が描きとるときの逡巡や不安、心地よく物語をつくっていくときのある種の欺瞞性にたいし、描写という武器がどうそれに抵抗するかという闘いを日本語で読める、と思いました。ぼくは『岸辺のない海』から、物語をつくり出すことと、それと同時に逆らっていくときの緊張感というものを読み取ったつもりなんです。
現代文学の読み方・書かれ方)

描写がここまで武器になるなんて知らなかったので、すごく驚いた。細部まで、それこそ「蟻の視線」みたいにびっしり描写していくことで、確かに「物語」に逆らうことができるものだと実感したから。
この『岸辺のない海』は、端的に言って、「バルト×ラカン×カフカ」なんだけど、それでおしまいにするのは勿体無さ過ぎる。
細部の描写が始まる瞬間というのは、いつも地面を蹴って飛び上がっているイメージで、描写が続いている間は宙に浮かんでいる(減速状態で)、そして着地した時には、さっきとは違う地平に立っている、という訳で、読みながらずっと「美恵子先生の跳躍力」と思っていたんだけど、小説の最後の方になってこんな文章が出てきた。

大地に、海の上に、山の上に、すべての隈ない大地のすみずみに、あるいは屋根の上に、あるいは人々の頭上、身体の隈ない表面に、スレートの、コンクリートの屋上の、トタンの、瓦の、丸屋根の、北向きに傾斜した屋根の、それら全ての屋根の上に、その下で数多の人間たちの生活が行われている数多の屋根の上に雨が降ります。あなたは多分、デパートの屋上遊園地かあるいは高層建築のホテルのゆっくりと部屋そのものが回転しながら都会の夜景を眺められる回転展望室のレストランで、あるいは耳障りな虫が頭の中に入ってしまったようなうなり声を発しつづけて、あなたを疲れさせるプロペラ機の小さな丸い窓から、そうです、昔だったら鳥類にしか許されていなかった視座から、町の屋根を眺めたことがあるでしょう。プロペラ機のエンジンの爆音が耳に飛び込んだ羽虫のように、後頭部を振動させて、そして、眼下に古い土地が見えて、海岸線と海と曲線をはためかす泡立ちクリームのような波が岸辺を洗い、昔は海の底だった古い街へ行くために、あなたは暗い海辺の飛行機に到着するでしょう。(274)

「描写で飛ぶ」ってイメージを浮かべながら読んでたところにこの文が飛び込んできたら、すごい快感。
あと、描写で物語に逆らうだけじゃなくて、物語の固まりみたいなのが突然ボコンと置かれていたりするのも面白かった。
意味もなく大きな果物籠を買ってしまって、うろうろしてたらその籠で女性のストッキングやぶいちゃって、早足で立ち去ろうとする女性を追いかけて弁償させてくれ弁償させてくれと付きまとったり、突然コオロギを助けた時の話が始まったり、サーカスのライオンに飼い犬を食わせる少年の話が出てきたり、あと突然なぞなぞ出したりして面白い。お店で食事をしてて、店内で踊ってる女の子を捕まえて「お前は自分がかわいいと思われていると思ってるだろう」とか苛めたりするのも良かった。
こういう面白さってなんだろうと思ってたら、『稲中卓球部』が思い浮かんだ。
あの漫画って、「ずっと中学二年生」という、物語に逆らうような場があって、その中でブスにからんだり、とつぜん宇宙の話になったり、田中が箱で送られたりという物語の固まりみたいなのが突然ボコンと置かれているような感じがしないでもない。
『岸辺のない海』と『稲中卓球部』がテクストとして繋がってたらいいな。
それが仮に無理のある話だとしても、『ヒミズ』よりも『稲中』からのほうが学ぶべき所は多いような気がする。