『エレファント』と、まなざしのレッスン

日曜に『エレファント』を観ました。
とても素晴らしい映画でした。恩師の仰る通り、『エレファント』も「視ることにかかわる映画」だったと思います。
あのピントの合わせ方、音の処理、そして一人の人物をじっと追うカメラ。
これらは、「あたかも映画を媒介としない生の視線らしさ」を演出すると同時に、そこに確実にカメラがあることを意識させるものでした。
つまり、カメラの視線によって少年や少女たちの内面がじりじりと作り出されていくのを感じながらも、カメラを通さずにその空気を直に吸えるかのような錯覚をも覚えたのです。
一人の人物をずっと追うのを積み重ねることで、結果として時間軸がずれたりもするのですが、時間軸がずれたのはあくまでも結果でしかなく、大事なのは余所見をせずに人物を見つめつづけることだったのではないかと思えます。
恩師による『グッバイ・レーニン!』についての解説の言葉をお借りするなら、『エレファント』は、カメラが少年や少女に向かって、あるいは観客が映画に向かって「無媒介のまなざし」をなげかけようとする、限りなく不可能に近い試みであったのではないでしょうか。なるべく「物語」やその他もろもろを媒介せずに人を見つめようとする行為の「美しさ」がこの映画の「美しさ」なのかもしれません。
そんなまなざしが、映画のラストを前にして一度断ち切られます。それは勿論二人の少年が銃を持って学校に乗り込む前のシーンです。このシーンでは、突然カメラが学校の見取り図の視線になったり、短くカットを切ったりします。
映画を観終わった直後には、何故このような演出がなされたのか、理解できませんでした。しかし、二人の少年がテレビでナチスの映像を見ていたことを思い出したとき、演出の理由がわかったような気がしました。
「二人の少年がテレビでナチスの映像を見ていたこと」は、『グッバイ・レーニン!』で「ブラウン管(他者・外部のまなざし)に映った宇宙飛行を通じて自分の夢を形成する」のと同じ事だと思います。だとすると、わたしたち観客があのシーンで感じた不快感(すなわち「映画っぽさ」)は、少年たちが「他者・外部のまなざし・物語」に流される瞬間の不快感であり、その不快感は惨劇に対する不快感と重なっていくのではないでしょうか。
わたしたちは『エレファント』を通じて、「無媒介のまなざし」を持つという不可能に近い夢を抱きながら、何度も彼や彼女の背中や横顔をじっと見つめつづけるというレッスンをすべきなのかもしれません。

ちなみに、蓮實流のレッスンは次のようなものです。

その一語は何であろうか。それを耳にするには、何も物語の圏外に身を置く自分を確信する必要はない。むしろ積極的に装置の一部として機能しながら物語の圏域にとどまり、その続きを心待ちにする様子などしてみればもう充分だ。装置にさからうには、間違ってもその総体を破壊しようなどと目論んではならない。その総体がますます円滑に連動しかねぬ歯車のようなものへと自分を畸型化させても涼しい顔をしていること。肝腎なのは、戦略的に倒錯すること、そして倒錯に耐えうるだけの柔軟さを見失わずにおくことだ。倒錯すべき正統的な理由など求めてはならない。とりあえずの契機がありさえすれば、もう心配はいらないだろう。ザッヘル=マゾッホを想起してみるまでもなく、倒錯とは、きまって戦略的なものではなかったか。
(『表層批評宣言』154)

「物語の圏外に身を置く」のではなく、「戦略的に倒錯する」というのは具体的にはどういうことかといえば、金井美恵子先生の『文章教室』なんかがそれに近い気がする。いや、今ぱらぱらっと眺めてみただけだからわからないけど。美恵子先生の「目白四部作」を読む前に、『ピクニック、その他の短編』を読んでいて、どの短編も素晴らしくて勉強になる。《彼について書くために、わたしの視線というものが必要だろうか。語り手でもあり同時に記述者でもあるわたしという存在が、それを書くために必要かどうか。わたしは彼の背後に静かに隠れ、そのかわりに彼に名前を与え(アルファベットの頭文字か、あるいはごくあたりまえの現実的な名前か)、登場人物として、いきなり登場させるべきか》とか、真剣に考えなきゃいけないことだし、「月」っていう短編はすごくかっこいい。「月」は、現在過去未来がひとつになっていて、そもそも時間の流れってそういうものだと思うから、ぜひ真似してみたいけど、こんなすごいこと自分にできるわけないとも思ってしまう。
話は変わって、というか戻って、いま「映画や、テレビや、グラビアや、アダルトビデオを媒介せずに目の前にいる女性を見つめる」という短い話が作れないかと考えている。もしも作れたら「珠玉のラブストーリー」になるような気がする。『世界の中心で〜』とかよりも。いや、『世界の〜』もぱらぱらっと眺めてみただけだからわからないけど。