書きたくない

仕事はいやだけど、最近読んだ小説はどれもおもしろくてそれは嬉しい。まず中原昌也先生、『マリ&フィフィ〜』はだいぶ前に読んでいて、最近『あらゆる場所に花束が・・・・・・』と『待望の短篇集は忘却の彼方に』を読んだんだけど、『あらゆる場所に〜』が一番すき。短編だと、「ここをこうはずしてやろう」みたいな狙いがはっきり見える分、訳わかんないようで分かりやすく、ぼくは訳わかんないものほどいいと思うふしがあるから、長くなった分狙いがぼやけたような『あらゆる場所』がすきなんだと思う。訳わかんないほどいい、というのもどうかと思うけど、でもぼくの価値観は昔からずっと訳わかんないほどいい、ただそれだけだったような気がする。中原先生を読んでいて、おもしろいとおもうところは、部分的にみるとすごく辻褄の合ったことを書いているんだけど、前後関係とか全体をみると訳がわからない、おかしいところじゃないかと思う。

゛熱気球が精子に似てるっていうのは、ちょっと無理がある"

茂も関係者のフリをして一緒に機材の運搬を手伝い、公園に向かう。特に違和感はない。

「あいつ、毛が縮れてるぞ」
しばらく間を置いて、もう一度言ってみる。
「縮れてるよ、髪が」

彼はすぐに何かをやる気になれなかったのである。とにかく疲れたから、ただダラダラとしたかった。
「立ち上がらなくてもいい範囲でなら、何かやってもいいかな」

とりあえずおもしろいと思ったところをいくつか抜き出してみたけど、なんのことかわからないかもしれない。「部分的に辻褄の合ったことの積み重ねが、訳が分からない物になる」というものを自分も書いてみたいとは思っているんだけど。この「部分的に辻褄が合う」ことと、中原先生が「お金をあげるからもう書かないで、と言われればよろこんで」みたいなことを短編でくりかえし主張することとの関係について考えるために、どうしても画太郎先生を思い出してしまう。
画太郎先生は「描きたくない」ということを様々なバリエーション、つまりコピーや、鉛筆丸出しの線、主人公をアシスタントが描く、などを用いて主張し、その主張自体を読者が楽しむというなかなかねじれたことを『珍遊記』などにおいて実践していたわけだけど、それは「描きたくない」と言葉で書かずに、「ああ、この作者、描くのがめんどくせぇんだな!」と思わせる技で、「描きたくないけど描く」と直接主張する恥ずかしさを回避することに成功している。
何を書いても恥ずかしい―肥大化した紋切型辞典を抱える現代人の我々にとってそれは逃れがたい事態で、それでもなるべく恥ずかしくないように書くにはどうすればいいのかと考えずにはいられない。そのように考えていくと、「書きたくない」とくりかえし主張して笑いをとろうとする『待望』より、しかたなしに原稿用紙の升目を埋めているのではと感じさせる『あらゆる』のほうが、より恥ずかしくない小説だと言えるんじゃないかと思う。なぜ「しかたなしに」と思えるのかというと、全体の流れを意識して、伏線をはったり反復をしたりせず、思い出したように「小林」が姿を見せる程度のゆるい反復で、あとはその場その場をしのぐために、部分的に辻褄のあった、もっともらしいことを並べてみせているから。その場しのぎっぽさを出している、テンションのばらつきや、全体の構成のゆるさがとてもすがすがしく感じられる。同じ三島由紀夫賞、第一回受賞作の『優雅で感傷的な日本野球』の、わけがわからないようでいて、かっちりとした構成、そのかっちりしたところが息苦しく思えてくる。それに対して、『あらゆる』の方は、読んでいてとても気持ちが良かった。
それで調子に乗って、もっと訳が分からない物を、と思い、笙野頼子先生の『母の発達』も読んで、これもおもしろかったんだけど、多少息苦しかった。それは、わけのわからないことをどんどん繰り出してくるおもしろさがあるのに、全体としては「樹木ではなく根茎」というドゥルーズの理論などがしっかり組み込まれているような空気があり、父と子という様々に論じられている関係を、母と娘に置き換え、批評を先取りするような戦略的なところがあるように感じた。そういうしっかりした部分がないと、小説として認められないのか?ただひたすら訳がわからないだけではいけないのか?どう書いてもなにかしら「訳がわかってしまう」ような気もするから、ただひたすら訳がわからないものを書くことは不可能に近いのかもしれないけど、どうにかならないかと思う。でもおもしろかったことに変わりはなくて、「あ」から「ん」までのおかあさんを考えろ、というのは、著者が自分に課したハードルでもあるわけで、そうしてひたすらおもしろいことを考えるというのは、バカドリルと同じようにとてもわくわくするし、読んでて自分もやってみたくなる。「注」の使い方もすごく興味深い。これは『岸辺のない海』と『亀虫』とあわせて考えてみたい。考えて、真似できるところは真似したい。『母の発達』の三つ目「母の大回転音頭」で最後に母が回転するところは妙に説得力があり、感動して、なんでただ回転するなんて馬鹿馬鹿しいことで感動できるのかという不思議さにまた感動した。あーあと三重弁がよかったのかな、どうかな。
さらに訳が分からない物をもっと、と思って藤枝静男先生の『悲しいだけ|欣求浄土』を読み始めたら、これが一番おもしろかった。まだ「土中の庭」までしか読んでないけど、主人公らしき「章」というひとは禿げてるし・・・・・・

章は真中あたりの席に坐り、禿隠しの鳥打帽をぬいで煙草に火をつけて画面に見入った。

章は二重カーテンで密閉した暗函のような寝室のベッドに、脚をまっすぐに伸ばして正しく仰臥し、掛け蒲団を胸のところまでかけ、その上に両腕を出して眠りの訪れるのを待っていた。これが学生時代から彼が自分に課してきた睡眠の姿勢であった。生得の醜い妄想と、恥ずべき不自然行為にうち勝つために考案したこの体形が、いつのまにか彼にとって最も自然で楽な姿勢と化していた。寒い夜は手袋をはめて寝た。今では頭が禿げたから、冬になると毛糸の帽子をかぶっている。
―彼はふと思いついて、このごろ眠れぬとき冗談に試みる死顔の真似をしてみることにした。

ポルノ映画を延々と描写したあと突然北海道旅行の話になったり、「父が狐に化かされたときのことを書いておきたい」といきなり宣言したりしてびっくりする。なにかしらのイメージを連鎖させて場面と場面をつなぐなんて恥ずかしいことはしないという姿勢に感動した。『あらゆる』で感じた、辻褄うんぬんのおもしろさがもっとすごくなった感じ。全部読んだら、大好き!と盛り上がってしまうかもしれない、それくらい訳わかんない。