遅い反抗期

今日は約束手形の割引をしながら、『Lovely Rita』の突然ズームするカメラについて考えていた。『Lovely Rita』のことを考えながら手形の割引をしていたせいで、金額につける「,」の位置を間違えた。「,」を四桁目につけてしまったんだけど、自分としては三桁目でも四桁目でもどっちでもいいという気持ちが強い。その日の気分で洋服にブローチをつけるように、「,」も自由な位置につけてみるという洒落っ気を忘れずにいたい。
お洒落談義はこれくらいにして、『Lovely Rita』の突然ズームについて思ったことを書く。

例えば、物語の初めの方にある学校の朝礼でリタがセーターを脱ぐシーンが、バスの運転手に声をかけるためにセーターを忘れるシーンへとつながったり、家での食事シーンと英語劇での食事シーン、それからリタがクラスメートの衣装を着て本番の舞台に上がるところと最後の方で彼女の家に行って彼女の上着を着て外に出て行ってしまう所、あるいは、隣家の少年と初めて会った日に裏山を歩き、少年の喘息の発作が起きてぜいぜいしているところと入院した少年を連れ出して走って逃げるところなどなど、後から出てくるエピソードが以前のエピソードのモチーフを引き継いでいくような構成がこの映画ではとられています。(・・・)上記のモチーフの反復の多くは、例えば、舞台の練習と本番、射撃練習とリタによる銃撃、隣家の少年とのセックス未遂とバス運転手との本番、というように、レッスンと本番という組み合わせになっています。しかも「本番」部分には、「完成」ではなく「失敗」の要素が付け加えられているように思える。つまり、レッスンを経て完成へと向かう一つの道筋が、しかし結局はうまく行かないことで逆に道が開けていくような構成になっているのではないかと思えたのですが、そういった構成にどんな思いを込めたのでしょう? 例えば、幼年期(レッスン)から成年期(本番)への移行についての考察を、ここに見ることも出来るのですが。

監督へのインタビューにおいて、樋口泰人先生は上記のように述べている。先生が指摘するとおり、この映画はモチーフの反復を用いて「レッスンと本番」を描いているようにみえる。父親と一緒に組み立てたライトが、リタがひとりきりになったときに再び灯るシーンなどは「レッスンと本番」とは言えないような気もするけれど、効果的な反復だった。最初にライトが登場するシーンではやけに父親が穏やかな雰囲気だったために、次にライトが登場するシーン(リタが父親を撃ち殺した後)が意味を持ってくるという、分かりやすくて単純だといえば単純だけど、これが反復の持つ強度なのかもしれないとも思う。そうしたシーンごとの内容的な反復はもちろんだが、そういえば、「突然ズームするカメラ」も反復していた。
なにかしらハッとするような場面で突然カメラがズームするという安っぽい演出に慣らされてきた感性が、ハッとするわけではない場面で突然カメラがズームするのを目の当たりにしたとき、どのような反応が起こるのか。ひとつには、ハッとするわけではない場面でズームが用いられることから、たとえるならボールが来ないのにバットを振る行為が「素振り」と呼ばれるように、ハッとするわけではないのにカメラをズームさせる行為が「ズームの練習」と捉えられることが予想される。料金を払って入る映画館、スクリーンの上で「練習」が行われるという事態は、とてもおもしろいように思われる。
もうひとつの反応として、初めは「まさか、このズーム、練習か??」とおもしろがっていたとしても、繰り返される突然ズームを前にして、「そもそも突然ズームがハッとした時の演出だという思い込みは、なんだったんだ」と思わされるということも考えられる。この場合、「ズーム=ハッとした時」というルールから解き放たれた、さらに飛躍し、息苦しい日常から脱出できた、という心地よい錯覚がもたらされるかもしれない。しかしそれは錯覚でしかなく、結局のところ、「『ズーム=ハッとした時』なんて、ただのルールなのでございますよ、おわかりですか!」とカメラから教育されていることに変わりはない。「ズーム=ハッとした時ですよ、いいですか、これはテストに出ますよ!」と教育されるのとたいして変わらないかもしれない。それは息苦しい。
この息苦しさは、映画の中でリタが感じていた(ように見える)息苦しさと重なるのではないか。
〈便器のフタを閉めろ〉をはじめとする様々な教育を受け、それに対してリタは不機嫌な顔をする。息苦しい、反抗したい。だから、両親を銃で撃ち殺す。しかし撃ち殺したところで、「銃で撃つ」という行為も映画によって「レッスン」させられた行為の「反復」に過ぎず、彼女はなにひとつ反抗的な行動を起こすことができないままということになるのではないか。リタはカメラによって、「レッスン」の「反復」の中に閉じ込められているように思える。銃で撃ち殺すことも反抗にはならない、だとすると、どのようにして反抗すればいいのか。
そこでリタは最後に、ズームしてくるカメラを直視する。教育してくるカメラを見つめ返すこと、それがリタに残された唯一の反抗する手段だったのではないか。その反抗は成功したのだろうか。この最後のシーン、リタとカメラが一瞬見つめあうという「本番」に向けて、カメラはずっと突然ズームする「レッスン」を積んできたのだということを都合よく無視できたなら、成功だと言えるはずだ。
それでは、どのように反抗すればいいのか・・・・・たとえば「,」を自由な位置につけてみるとか、「,」じゃなくて「☆」をつけることにしてみるとかね。そういえば一昨日、支店から出た隙に食べたハーゲンダッツのクリスピーサンド(リッチミルク)はすごくおいしかった・・・・・・セミの声を聴きながら公園で食べるそれは、甘美な反抗だった。