えげつなさに痺れた土曜日

週末の楽しみといえば映画をみに出かけることくらいだから、また今日も昼過ぎに家を出て名鉄に乗り名古屋まで出て、地下鉄で栄へ移動し、オアシス21の出口から名演小劇場まであるき、『ドリーマーズ』を観た。同じ劇場の三階では『だれも知らない』を上映していたようで、そちらはすごく混んでいた。
この劇場、冷房がきつくて寒かった。年配のお客さんが多かったので、もしかしたら歳をとるとどんなに冷房がきつくても冷たさを感じなくなるものなのかと思ったけど、まあそんなこともないかとすぐに思い直した。とにかくそんな寒い中で『ドリーマーズ』を観た。
高校生の頃、小西康陽先生が絶賛しているのをなにかで読んで『暗殺の森』と『ラストタンゴ・イン・パリ』をみた記憶はあるけど、内容はほとんど忘れている。なので、あのベルトルッチ先生の最新作!復活しているのかそれとも、みたいなことは特に思わずに『ドリーマーズ』を観た。
68年といわれても、まだ生まれてもいなかったし、その時代のことをとくに熱心に調べたこともないので全然ピンとこない。ヌーベルバーグといわれても、ぬぅべるばぁぐ?といった感じで、なんとなくむずむずとかっこよさそうな雰囲気だなとしか思えない。そうした歴史的なことをほとんど考慮に入れずにみて、『ドリーマーズ』は今っぽい映画だと(個人的な今の気分に合った映画だと)思った。
どういうところが今っぽいかというと、えげつないところかなと思う。ここでいう今っぽさとはほんとうに個人的な感覚で、たとえば阿部和重先生の作風だったり、渡部直己先生の「隠喩に唾をかけろ!」という主張だったり、そういうところから感じられるもので、『ドリーマーズ』はそういう意味で今っぽく、言い換えるならえげつなく、つまりえげつないことはよろこばしいこととして捉えたいという意味で、おもしろかった。
アメリカからきたマシューが、洗面台で水を流しながらおしっこをして、透明な水と黄色いおしっこが混ざり合い、そこに歯ブラシが落ちて、歯ブラシにおしっこがかかっちゃったどうしようってなって、まあ水でざっと流してそのまま置いておいて、翌朝その歯ブラシを何も知らないテオが使うのを見て、テオがマシューに「俺の歯ブラシつかうか」とたずねたときに「指でみがくからいい」と答えるところがおもしろかった。その場面と、マシューとイザベルがセックスしたあとに、イザベルの股間から流れた血をマシューが触り、その血で顔を赤く染めながら二人がキスする場面とは、ともに体液がなにかと混ざり合うという点と、それを口元に運ぶという点でつながっていて、そういったちょっとえげつない細部の連鎖だけで映画を一本作ったらおもしろいかもしれないと思った。
亀頭にイザベルの写真が張り付いてるところもすごくおもしろかった。
でもとにかくおちんちんなどにボカシを入れるのはやめてほしい。せっかくこの映画はえげつなさというか、隠さないところがいいのに、台無しだと思う。そういえば『愛のコリーダ』をみたときも思った。ちょん切られたあとのおちんちんは映るのに、切られる前のおちんちんにはボカシが入ってるのは絶対だめだと思う。
ボカシのことはとりあえず忘れてもう思い出さないことにして、この映画はおちんちんとかおしりとかそういうところだけがえげつないわけじゃなくて、なによりも他の映画を引用するその手つきがえげつなくてよかった。
イザベルがニューヨークヘラルドトリビューン!と叫んで『勝手にしやがれ』に切り替わるとか、すごくえげつなくてばかばかしくていいし、元の映画をいちいち挟み込むところがえげつなくてよかった。なにかを引用するときに、オマージュとかいってさりげなく取り込んで、分かる人には分かるといった風情で流していくのではなく、いちいちはっきりと挟み込んでいくところが今っぽいかなと思った。引用という行為が、自分の感情を直接表さないための手段になったり、なんらかの匿名性を帯びるのではなく、なにをどう引用したのかという点で引用する者の個性が浮かび上がること、今回の場合だと、道端で突然ニューヨークヘラルドトリビューン!と叫ぶばか、というひとりの人間の姿がそこにあり、その姿をみていると、引用というのは自分で物を言わないためにする行為ではなく、むしろ引用することで積極的に「引用する自分」を主張するすこしばかばかしい行為だということがわかり、それが今っぽさ、21世紀っぽさなのかもしれないと思う。
なによりも、「映画あてクイズ」の正解として映画が引用されるその引用され方というのがなかなかありそうでなかったような気がするし、そういうやり方のほうが今は恥ずかしくないといえるかもしれない。「映画あてクイズ」の罰ゲームが「オナニーしろ」とか「セックスしろ」とかいちいちえげつないので、引用の仕方と罰ゲーム、ふたつあわせてよりえげつなく、すばらしかった。
その「セックスしろ」でイザベルが服を脱ぎだした時は、あまりの乳輪のでかさにびっくりして、それに対するマシューの困惑した表情が、テオの前でセックスすることに対する困惑というより「うわ乳輪でけぇな」という困惑にみえてしまったところもまたおもしろかった。おっぱいが現れた瞬間にびっくりすることって、あまりないし。
このような感想をふまえて、全体としてこの映画は「『ラストタンゴ・イン・パリ』を踏まえて阿部和重先生がパリで撮影した『スッキリかつハッキリした』映画」という印象だった。ということは、この映画からなにかを学んで小説に活かそうとすると自然と阿部先生みたいになると思われ、それはちょっと困るのでなんとかしたい。
映画館を出て栄までまたあるき、パルコのタワーレコードをのぞいたあと、マナハウスへ行って、マナハウスに早稲田文学が置いてあるのをみていつから置くようになったのか、これからはここで手に入るようになってよかったと思い、そのまま伏見まであるき、電車に乗って帰った。
休みの日は、今池で映画をみて千種まであるき、正文館をのぞいてからJRで名古屋まで出てそこから名鉄に乗って帰るか、今日みたいなパターンばかりで、革命もセックスもない。82年生まれとしては、何について書くべきなのかわからなくて困る。9.11以降、みたいなことに取り組めば今っぽいのかもしれないけど、なんとなくいやだ。ちょうど名古屋駅にツインタワーがあるけど、なんとなくいやだ。でも名古屋、愛知県を舞台にしてみたいとは思う。知を愛するとか言いつつ、なんかえげつない気がするから。
いま小説のタイトルを考えている。

  • 「肉 対 野菜」
  • 「にく対やさい」
  • 「肉対野菜」

はやくもっとすばらしいタイトルを思いつきたい。