カール・ドライヤー先生・漫☆画太郎先生

先日、カール・ドライヤー先生の『裁かるるジャンヌ』を観ました。
この映画は人物の顔が素晴らしかったです。
その素晴らしい顔のクローズアップ切り替えしの連続、これがおもしろかった。
とにかくクローズアップ切り替えしだけで進むので、人物の位置関係がわからない。わからないのに映画が進行する。
判事とジャンヌの顔が交互に映されれば、二人が会話しているように見える、これは映画の基本ルールだから、私は勝手に二人が会話していると思うわけです。
でも、ジャンヌが独房に移された後、同様に判事とジャンヌの顔が交互に移されると、私は勝手に二人は別の空間にいると思う。
この辺りに映画の秘密が隠されているんじゃないかと思うんです。
人物の目線も気になりました。それについては、蓮實重彦先生が小津安二郎先生について書いた本を参考にすればヒントが得られるかもしれないので、今度調べてみます。
もうちょっと勉強が必要ですね。

あと、ジャンヌはずっと一貫して一人だけだったのに、冠と弓矢をはずしに男が現れて二人がカメラに収められると、どきっとしましたよ。ジャンヌと誰かが一緒に映るのはそこだけだったはずなので、強い印象を与えたんだと思うんですけど。

無理やりまとめると、「クローズアップ切り替えしの反復と、そこに含まれる微妙な差異」が気になった点なんです。その「反復と微妙な差異」という点で、漫☆画太郎先生を思い浮かべました。そう、あのコピー芸です。
特に浮かんだのは、『珍遊記』の万引き小僧とババアとの対決なんですけど。あの切り返しの反復、そして「素晴らしい顔」。特に、画太郎先生の「これまでの漫画の基本ルール」を問い直すような姿勢からは学ぶべき所が多いと思う次第です。
ということは、画太郎先生も「聖なる作家」なのかもしれません。
十字架のモチーフが頻繁に登場すれば「聖なる映画」って訳でもないでしょうから。

今回はドライヤー先生と画太郎先生の、「『反復と微妙な差異』によって観客や読者の意識を揺さぶる方法」を学習した、ということでしょうか。いきなりむつかしいな。