ジョゼや!

ジョゼと虎と魚たち』先生を観てきたで。
この映画は、ツマブキ君が足の不自由なジョゼだけでなく他の女の子とも付き合うとるとか、幼なじみが田舎のヤンキーになってもうとるとか、そのへんのさじ加減が「リアル」ってことなんやろうけど、それよりもっと気になったところがあるんやわ。
それはな、なかなか外に出れないジョゼが、ツマブキ君と一緒に街へ出た時、風景が写真みたいになったところや。

このなかなか外に出れない、景色を見れないっちゅう状況のせいで、何気ない街の風景が写真みたいに目に焼きつく感じを、そのまま写真(静止画)で表現しとるところがよかったと思ったんや。

で、こっからがワイの言いたい事なんやけどな、この何気ない街の風景の写真(静止画)は、ジョゼの目線であると同時に、一緒におったツマブキ君の目線でもあるっちゅうこっちゃ。

ここで柄谷行人先生の「漱石の多様性―『こころ』をめぐって」を思い出してみたいんや。柄谷先生は、ヘーゲル先生の「欲望とは他人の欲望だ」っちゅう考え方を使って『こころ』について論じてらっしゃるんやけどな、この「欲望とは他人の欲望だ」っちゅう考え方をジョゼとツマブキ君のカメラアイで思い出したわけや。まあ、ワイはヘーゲル先生についてしっかり勉強したわけやないから、ねじまげて解釈しとるかもしれへんねんけど、ラカン先生も似たようなことゆうとった気がするし、まあ、かまへんがな。

で、ツマブキ君のカメラアイがどないしたんやっちゅうとな、ツマブキ君にとって、その街は見慣れたものやろうし、「目に焼き付ける」べきもんとちゃう。でも、街に出るのが新鮮やっちゅうジョゼの隣にいることで、彼女の欲望を通じて、同じようにツマブキ君も見慣れた風景を目に焼き付けたんやないかと思たんや。

だからな、映画の最初で現れた、ふたりで行った水族館やラブホテルや海の写真(静止画)はジョゼの隣にいた時のツマブキ君の目に焼きついたものやないかな。海でツマブキ君がカメラをぶらさげてたのを見た時、そんなしょうもないもんぶらさげんでも、あんたの目にはしっかり焼き付いて忘れられんようになるに決まってるやないか、ジョゼと一緒におるんやから、と思た。

ジョゼとツマブキ君ほどおおげさやないにしても、例えばひとりで映画を観に行った時と、誰かと二人で映画を観に行った時とでは感じ方が違うことがあるやろ。
二人で行くと、「隣におるひとは今このシーンを見て何を考えるんやろ」って、「他人」の目を通じて映画を観ることになる瞬間があるはずや。

だから、ジョゼと別れたツマブキ君は、もうジョゼの目を通じて景色を見ることができひん事に悲しんだんと違うかな。
ツマブキ君とジョゼの関係以外にも、福祉関係の道に進みたいっちゅう巨乳の彼女がジョゼの家に来た時、ツマブキ君は巨乳の彼女の目を通じてジョゼを見たやろうし、弟の目を通じてジョゼを見たこともあったやろうな。実家に帰る途中でも、自分の家族の目を通じて見るジョゼを想定して逃げ出してしもたんやろうし。

誰かの目を通じて何かを見るっちゅうことはワイも普段からしょっちゅうやってることなんやよな、意識してるにしろ、無意識にしろ。『ジョゼと虎と魚たち』先生を観ながらそんなことを思たわ。

ほんで結局ジョゼはフランスにいけたんかな、それがちょっと気になるわ。