モジャモジャ頭と無限ループ、そして異次元のトイレ

森島探偵局に次のような依頼が来た。

ヴィンセント・ギャロの『ブラウン・バニー』をみて、さらにビデオやDVDでヴィム・ヴェンダースの5作品『都会のアリス』『まわり道』『さすらい』『ことの次第』『パリ、テキサス』のうち最低2作品を観て、「ロード・ムービー」という形式と各作品の内容の両側面に関して調査せよ

そこで早速、森島探偵はギャロ先生の『ブラウン・バニー』を観た。
そして疑問点をいくつか挙げた。

  1. 冒頭のバイクレースの途中で音が途切れるのは何故か
  2. バド(ギャロ)の髪がモジャモジャなのは何故か
  3. 途中で出会う女達とのやりとりから感じる「唐突さ」は何故か
  4. 真っ白な砂漠でバイクを走らせ、遠くで浮かんでいるように見えるのは何故か
  5. ホテルに現れたデイジー(クロエ)が何度もトイレに行くのは何故か
  6. フェラチオするのは何故か

その後、これらの疑問を頭の片隅に置きながら、『まわり道』、『さすらい』、『パリ、テキサス』を観た。
「ロード・ムービー」と呼ばれるこれらの3作品の共通点として、次の二点を挙げた。

  • 登場人物が移動・旅をする
  • 時間の流れに逆らわない(回想シーンがない)

次に、森島探偵は、阿部和重先生に聞き込み調査を行った。阿部先生は、「ロード・ムービー」の特徴として「直線的な移動」を挙げた。

60年代(ヌーヴェル・ヴァーグ)的な運動の描出が、街中や屋内という狭い範囲での躍動的な円形運動だったこと(・・・)に対して、70年代の「ロード・ムービー」作家たちは広範囲を直線的に移動する鈍重な運動を描くスタイルを選択した。

それに加えて阿部先生は、『さすらい』におけるこの直線的移動が実は円形運動に過ぎないと指摘した。冒頭での展開を逆になぞる形で、似たようなエピソードが映画のラストで反復して描かれるためである。
なるほど、確かに映画を全体的に観てエピソードが円環的に配置されているというのは分かると森島探偵は思った。
しかしそれでもやはり、「ロード・ムービー」の中の時間の流れは「直線的」であると言えるのではないか。

そこで森島探偵は、「ロード・ムービー」における時間の流れについて考えるために、樋口泰人先生の『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』を訊ねた。
樋口先生は、「映画にはふたつの時間が流れている」と言った。
「それはどういう意味ですか」と森島探偵は聞いた。
「ひとつはカットされ、構成されたさまざまなショットが作り上げる映画の時間。そしてもうひとつは、映画の外側に、つまり、スクリーンを見ている我々が通常経験している日常の現実的な時間。」
先生は続けた。

「カットという概念」によって構成された映画独自の時間の流れは、単に流れているだけではなく、何かの意味を持つ。あるいは観客がその意味を気にしなくてもいいように、その物語と一体となって流れていく。それに対して、日常の現実的な時間は単に流れているだけである。そこには意味がない。人間が操作することもできない。だからその時間が物語の中に入り込んできたとき、あるいは作者がそれを物語の中で示そうとしたとき、そこには齟齬が生まれる。逆に言えば、構成された時間は、物語とそれを作り出した人間に属している。

ヴェンダース先生は、「作為的」な映画の時間の中で、自然の「無作為」な時間を表現しようとしていたと考えられる。それは矛盾した行為である。『映像(イメージ)の論理』の中の「物語の不可能性」という文章においてヴェンダース先生は物語を拒絶しようとしつつも、物語が必要不可欠なものであると述べている。
ここにも矛盾が生じている。「物語を欠いた映画というものは存在しない」という蓮實重彦先生の言葉を借りるまでもなく、その矛盾は明らかであり、「作為的」である映画の時間の中に「無作為」な時間を導入する試みも大きな矛盾を孕んでいる。その矛盾に抵抗する一つの手段として、ヴェンダース先生が「長回し」を用いているのであろうことは、「ロード・ムービー」を観ればよく分かる。しかしそれは「人工的な自然の時間」に過ぎない。

「映画とは『人工的な自然の時間』、すなわち『作為的な時間』の中にあるものらしい」と森島探偵はメモをとった。

さらに森島探偵は、『キネ旬ムック・フィルムメーカーズ―ヴィムヴェンダース』先生から、いくつか興味深いことを聞き出した。
まず『さすらい』について。

最も目を引く映像は、人物ではなくバックミラーの中の景色であるはずだ。そこに映る景色は後ろへ後ろへと遠ざかっていく。まるで過去を置き去りにするように。もし、これが目的地のはっきりした、前進するための旅であったなら、キャメラは運転手の見た目か、あるいは運転席の後ろからフロントガラス越しに見える前方の景色を捉えるはずだが、そんなショットはない。

次に『パリ、テキサス』について。

彼の視線はいつも連続性のあるものばかりに釘付けになる。彼が目に焼きつけるのは、たとえば空を飛ぶ飛行機ではなくその影である。黒い機影は地上を車のように走っていく。またあるときは彼は家族の靴を磨く。磨いた靴をぴったりとくっつけて横一列にならべる。誰かがそこから自分の靴を抜き出す。彼はぽっかりと空いた一足分の隙間、一人分の断絶を靴をならべ替えて埋める。この連続性への異様な執着は何を意味するのだろうか。

ひとまず調査を終えると、森島探偵は事務所に帰り、考え始めた。
このような「映画と時間の関係」に注意しながら、『ブラウン・バニー』の疑問点について考えよう。『ブラウン・バニー』は、ヴェンダース先生のような「ロード・ムービー」に見える。パンフレットには「アメリカ大陸横断5,000キロ」とあり、「直線的な移動」が行われていることが分かる。車からの景色が映し出されれば、それは「直線的な移動」を想起させるだろう。では「時間の流れ」はどうか。
ここで「『ブラウン・バニー』の中では、時間は真っ直ぐに流れるのではなく、無限ループとしてまわりつづけている」という仮定を立てることにしよう。
この仮定を立てるきっかけは、「年をとらない茶色いウサギ」の存在にある。時間が止まってしまったかのようなデイジーの実家で変われている「ブラウン・バニー」。後でバドがペットショップでウサギの寿命を確認するシーンを挟むという親切さ。ギャロ先生は、親切にも「ブラウン・バニー」という記号を使って、この映画に流れる時間は普通ではない事を教えてくれている。普通ではないことは分かった。では「『ブラウン・バニー』の中では、時間は真っ直ぐに流れるのではなく、無限ループとしてまわりつづけている」という仮定について、〈疑問1冒頭のバイクレースの途中で音が途切れるのは何故か〉から考え始めよう。パンフレットの中で町田康先生は、この音が途切れることについて、次のように述べている。

冒頭のレースのシーンでときおりレースの音が途切れるのが、これから入っていこうとしている世界が我々が普段暮らしている日常の世界ではなく、それに似た別の世界であることを指し示しているように思え、際だって効果的だった。

町田先生が指摘するように、バイクのシーンで音を抜くことで「作為的な時間」つまり映画の中の時間が決して自然な時間の流れではないことが示されていると考えられる。そしてその「自然ではない時間の流れ」とは、すなわちバイクレースのように「円形に回りつづける時間」ではないだろうか。
この「円形」のイメージが、バイクレースの後どう繋がっていくかといえば、ヘルメットをとったバド(ギャロ)のモジャモジャ頭へと繋がると考えられる。(モジャモジャ=否直線)これが〈疑問2バド(ギャロ)の髪がモジャモジャなのは何故か〉に対する推測である。
そして、〈疑問3途中で出会う女達とのやりとりから感じる「唐突さ」は何故か〉。これも作為的な時間の流れを際立たせるものの一つではないか。それに加えて、もし「無限ループ」という仮定が正しいとするなら、女達とバドとは初対面ではないことになる。彼らは何度も会っている、だから親密になる過程は不必要であり、唐突にキスをするということになる。
〈疑問4真っ白な砂漠でバイクを走らせ、遠くで浮かんでいるように見えるのは何故か〉。白い塩の砂漠で、ふいにバドは車を止め、バイクで地平線へと消えていく。これはデイジーの幻に出会うための「儀式」のようなものではないか。
パリ、テキサス』の主人公が、地面から離れる飛行機を嫌い、靴をきちんと並べる、といった「連続性」に執着していたのに対し、バドはここで、バイクに乗ったまま地平線という「連続性」から浮かんでいるように見える。無限ループの連続性から一瞬離れて地平線に浮かぶことで、デイジーの幻との再開を果たす、と解釈することもできる。(無限ループだとすると、バドは何度もこの「儀式」を繰り返していることになる。それは砂漠で「唐突に」バイクを走らせることと繋がるだろうか。)
このあと、ホテルでバドはデイジーの幻と会う。デイジーが幻であることは、最後にベッドの上からデイジーが姿を消すことから判断できる。ではデイジーはどのような幻なのか。バドの幻覚なのか。もしバドの幻覚なら、何故デイジーがバドの視界の外にあるはずのトイレに立つのか。これが〈疑問5ホテルに現れたデイジー(クロエ)が何度もトイレに行くのは何故か〉である。
デイジーが現れた瞬間、観客はまだデイジーが既に死んでいるという事実を知らされていない。デイジーが既に死んでいるのではないかと薄々感づいていたとしても、デイジーが一人でトイレの鏡に向かっているシーンを見るとその考えが間違っているのではないかと思うだろう。そして最後にデイジーが既に死んでいるという事実を知ったとき、トイレのシーンは大きな違和感とともに思い出される。バドの視界の外にあるトイレに立つデイジーは、バドの幻覚ではありえないはずだ。トイレのシーンは、「バドの時間」とは別の、「デイジーの時間」の一部ではないか。つまりそこは異次元のトイレなのである。だとすると、『ブラウン・バニー』の中には「ふたつの時間が流れている」事になる。
デイジーがトイレに立つのは一度ではない。何度もトイレに立つことは、デイジーの時間が「線」ではなく「点」でしかないことを表しているのかもしれない。トイレから出たり入ったりすることで時間が寸断されるからだ。バドとデイジーが出会うのは、その「点」の明滅する一瞬に過ぎない。ちなみに、ホテルでデイジーを待つ際、バドはモジャモジャ頭を撫で付けている。これはここまで続いてきた円運動のイメージを一旦断ち切るためではないか。
ふたつのループが交差する瞬間、それはほんの一瞬であり、しっかりと重なりあうことはない。それがフェラチオとして表れている。〈疑問6フェラチオするのは何故か〉。このシーンにおいては、フェラチオをする時の二人の顔の位置が大切だったのではないか。『パリ、テキサス』のラストでは、マジックミラーを挟んで二人が会話をしていた。それはひとつの画面に同時に二人を収めつつ、しかし決して「重なりあうこと・しっかりと向き合う事」がない二人を表す方法だったと思われる。では、マジックミラーを使わずに、二人の人物をフレームに収め、なおかつ向き合わせたくない場合どうするか。
フェラチオさせればいい。そうかフェラチオさせればいいのか、と森島探偵は頷いた。
フェラチオの際、二人の顔は上下の空間に分断され、しかも逆方向を向いている。フェラチオをしてほんの一瞬交差した二人の時間はまた別々の「ふたつの時間」へと戻っていく。バドはバイクレースに参加する。そして最初に戻る。無限ループである。
七夕の物語のようだ。織姫と彦星は、一瞬出会ってフェラチオをする。それの繰り返し。
『さすらい』は線運動でありながら円形運動であると指摘されていた。「運動」は円形であったとしても、時間の流れは直線であっただろう。それに対して『ブラウン・バニー』は円形に時間が流れる「ロード・ムービー」である。
ヴェンダース先生とギャロ先生は、ともに映画の中の時間という問題について考えたのかもしれないが、アプローチの仕方が異なっていたのだ。ヴェンダース先生が、「映画の外の時間をどう映画の中で表現するか」と悩んでいたとしたら、反対にギャロ先生は、「映画の中の時間は映画の中の時間でしかない」という同語反復によって『ブラウン・バニー』という「無限ループのロード・ムービー」を作り上げたのである。

内容的なことにあまり触れられなかった。少しだけでも触れてみよう。森島探偵は最後の気力を振り絞った。
ヴェンダース先生は、『映像(イメージ)の論理』の中で、『さすらい』について次のように語っている。

それは、女性の不在を描く物語であると同時に、でもやはり女性がいてくれれば・・・・・・という憧れについての物語でもある。

ブラウン・バニー』も、「女性の不在」を描いている。
途中で三人の女性と出会うにも関わらず、そこにあるのは「女性(デイジー)の不在」なのである。
確かにほんの少し触れた、しかしそこで森島探偵は力尽きた。
これで依頼に応えることができただろうか、森島探偵は不安に思いながらも、重たいラバーソールを引きずって家路についた。