顔の形をした壺

いまシネマテークで公開中の「息子のまなざし」ですが、カメラの視点を考える
と、緊迫感が増大します。

大学の恩師から電子メイルで『息子のまなざし』についてのコメントが届いたので、さっそくシネマテークに足を運びました。
写真は大英博物館で見た「顔の形をした壺」ですが、その中に恩師の面影を見出して写真を撮りました。
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ先生の『息子のまなざし』のパンフレットによる粗筋は次のようなものです。

オリヴィエは職業訓練所で大工仕事を教えている。ある日、その訓練所にフランシスという少年が入所してくる。フランシスは大工のクラスを希望するが、オリヴィエは手一杯だからと断り、フランシスは溶接のクラスに回される。しかし、オリヴィエは人に気づかれぬよう、フランシスを追う。
フランシスとは誰なのだろう?
何故、オリヴィエは訓練所の廊下、街角、ビルの中までフランシスを尾けるのか?
何故、オリヴィエはそんなにもフランシスに興味を持つのか?
何故、オリヴィエはそんなにもフランシスに怯えるのか?

粗筋に挙げられている謎を知りたくない人はここから下を読まないでください。
私は「緊張感を増大させなければ」と思いながら映画を観ました。
パンフレットの中で、宮台真司先生が「ドキュメンタリーのようだと思う。(・・・)観客は手持ちカメラが何をどう撮影するかについて恣意性を絶えず意識させられる」と指摘しているのと同じようなことは誰でも気づくと思います。
全編手持ちカメラということで、どうしてもカメラの存在が気になります。映画は常に「カメラの存在」をどう捉えるかというすごく根本的な問題を抱えています。たとえば蓮實重彦先生は、「制度としての映画」の中で次のように述べています。

映画には、いま撮影しつつあるキャメラそのものを絶対に画面に投影しえないという限界が存在する。性器や陰毛といったたぐいの対象であるなら、ポルノグラフィーが解禁された諸国に行きさえすれば日本人でもそのイメージに接することができる。だが、性器なり陰毛なりを撮りつつある瞬間のキャメラをスクリーンに認めることは絶対に不可能なのだ。つまり映画には、キャメラが自分自身をとらええないという限界が存在しているのであり、その点においても、映画の制度性は露呈することになるだろう。

蓮實先生が指摘する通り、カメラは「自分自身をとらええ」ず、しかしそれでも確実にカメラがそこに存在しているという事実抜きには映画は成立しません。したがって、映画を撮影する際には、「カメラの存在感をなるべく消去するようにつとめる」か、「カメラの存在感を積極的にアピールして、それが誰かの視線であることにする」かを選ぶことになるのだろうと思います。
息子のまなざし』の場合は全編を後者のやり方で撮影しており、カメラはオリヴィエのそばから離れることはありません。そしてそれが誰の視線かといえば、邦題にあるとおり、「息子」の視線だとしか思えませんでした。
映画の冒頭では、オリヴィエに息子がいたことは観客に知らされていないので、誰の視線かわからないままの状態が続きます。この状態もひとつの「緊張」をはらんでいるのではないでしょうか。「こんなにカメラの存在をアピールしているんだから何か秘密があるんじゃないか」と誰でも考えるはずです。
つづいて、オリヴィエの元妻がやってきて再婚の話をし、子どもの話題も出た時、「もしかしてオリヴィエとこの元妻との間には、かつて子どもがいたんじゃないか」と考えるのが自然だし、そこで、「その子どもが亡くなってしまったショックで二人は別れてしまったのかもしれない」と想像を働かすことも充分可能です。
その予感は当たり、実際にオリヴィエと元妻との間の子はフランシスによって殺されたのだということが分かります。そこで観客は確信するはずです。なるほど、ではこのカメラの視線は「オリヴィエにとりついた背後霊としての息子か」と。
そう確信してしまうと「緊張」は失せるかというと、むしろ逆でした。
映画の中で、オリヴィエの車の助手席にフランシスが乗っているシーンが出てきました。車の後部座席からカメラは二人を見つめています。やがて、走行中にもかかわらずフランシスが「後ろで寝る」といって後部座席に移動します。同時にカメラが助手席に移動します。カメラが後ろにいることを分かっている観客は、フランシスが「後ろで寝る」と言った瞬間、「後ろにはカメラが(息子が、そして彼と自己同一化した観客が)いるから移動できないぞ」と感じるのではないでしょうか。その瞬間に「緊張」を感じました。
また、フランシスが「息子」の位置に移動するという行為から、観客はこの映画の終わりが近いことを察します。役者のポジションによって映画の中のキャラクターの状況を暗示するというのは頻繁に行われることです。台詞などを使わずに何かを伝える映画的な手法だと思います。
そして映画の終盤、木材置き場でオリヴィエがフランシスに「お前が殺したのはおれの息子だ」と打ち明け、それを聞いた途端逃げようとしたフランシスを追い掛け回して最終的につかまえたあと、無言で二人が協力しながら車に積んだ木材にカバーをかけるというラストシーンになります。二人がカバーをかけるという行為は、どうしても「死んでしまった息子をもう一度二人で埋葬しなおす」ことを暗示しているように感じられてしまいます。そして大事なことは、カバーがカメラにかけられるのではなく、カバーをかける二人をカメラが見つめているという点です。この瞬間、パッと暗転して映画は終わります。さあ、映画を観ている間「息子」として父親や自分を殺した少年を見つめてきたあなたは、今どんな気持ちですか?それが殺されてしまった「息子」のまなざしであるはずです、といったラストだと思えました。

オリヴィエは、シャワー室にいるフランシスを覗こうとする。フランシスの乗ったバスを尾行する。フランシスの部屋に忍び込んで彼のベッドに寝てみる。総じて主人公は、少年から世界がどう見えるのかを追体験しようとする。(宮台真司

オリヴィエがフランシスから見た世界を追体験しようとしているのは、オリヴィエがフランシスの首を締めるような素振りを見せるところに一番よく表れていると思いますが、オリヴィエがフランシスの視点に立とうとするように、観客は「息子」の視点に立たされるのではないかと思いました。

以上が私の考えた「カメラの視点と緊張感」ですが、恩師の意図した事はこんなことではないかもしれません。「カメラの視点=息子の霊」なんて、あまりにも邦題に引きずられすぎた考えかもしれません。
息子のまなざし』を映画館でご覧になる機会がありましたら、どなたか意見をお聞かせください。