日常と尻

ホン・サンス先生の『気まぐれな唇』を観ました。

「ユーモア溢れる粋なセリフで彩られる“男の本性・女の本音”。過剰な装飾はなく、日常のスケッチのようなロマンスは、批評家やマスコミの絶賛はもとより、韓国の若者たちの共感を呼び、大ヒットを記録した。(パンフレットより)

上記のように、『気まぐれな唇』は確かに「日常のスケッチのようなロマンス」でした。そこで、この映画では「日常」がどのように映し出されていたのかということを考えてみたいと思います。
映画の中で、ギョンスという俳優は二人の女性と出会い、セックスをして別れます。一人目の女性はダンサーのミョンスク、そして二人目の女性は人妻のソニョンです。特に二人目の女性との関係については、「チョンピョン寺の回転門の由来」が下敷きになっているようです。その「由来」とは、次のようなものです。

美しい姫に恋をした男が、彼女を想うあまり病気になり、それを知った王様に殺されてしまった。姫のことを忘れられない男は、蛇に生まれ変わり、姫にぐるぐると巻きついた。どうしても離れない蛇に困った王は、道士に相談し、チョンピョン寺に行くことを勧められる。寺についた姫は、蛇に「ご飯をもらってくるからここで待ってて」と言い、蛇は姫から離れて門で待った。しかしいくら待っても姫は帰ってこない。やがて夕立が降り、雷が鳴り、怖くなった蛇は門から引き返した。蛇がその前で引き返したことから、「回転門」と呼ばれるようになった。(パンフレットより要約)

ギョンスはソニョンとの関係において、この「回転門の由来」をなぞるような結果になっていることに「後から」気づきます。実際に、二人のやりとりは「日常的」というよりは、むしろ「ドラマチック」なもののように思えます。電車の中で偶然に出会った二人が実は昔にも一度偶然会っていたことがある、など、古典的なラブストーリーを思い起こさせるような展開が起こっています。それでは、「日常のスケッチのようなロマンス」という言葉は嘘なのかと言うと、そんなことはなく、むしろこの「ドラマチック」なところこそが、「日常のスケッチのようなロマンス」なのだと感じられました。
そもそも私たちの「日常」というものは、「ドラマ」の模倣に過ぎないと思うからです。街を歩けば、至る所で「ドラマチック」な「ロマンス」に浸っているカップルを目にすることができるし、「ロマンス」以外でも、生活のあらゆる局面において、私たちは映画やテレビの真似事をしていると思えます。それくらい、私たちが演じたくなるような「物語」は数多くあるということでしょう。私たちの「日常」が映画やテレビになるのではなく、映画やテレビが私たちの「日常」のお手本ではないかということです。
この考え方でいくと、映画における「日常性」とはなにか、わからなくなってきます。そこで、『気まぐれな唇』の場合はどうかと考えてみることにします。『気まぐれな唇』は、「私たちが日常において物語を演じているにすぎない」ことを画面に映し出している点において「日常のスケッチ」たりえているのではないでしょうか。具体的な「スケッチ」の方法としては、人物の会話のシーンで切り返しを使わず、ワンカットで全体を映しつづけることなどが挙げられると思います。反対に、「私たちが日常において物語を演じているにすぎないことを隠蔽するための偽の日常」を映し出している映画も存在する可能性があるということです。
そして、「昆虫学者のような観察力で人間の内面を鮮烈に切り取る」と評されるホン・サンス先生は、この「私たちが日常において物語を演じているにすぎない」ことの「間抜けさ」をも、映し出していると思えます。それは、ギョンスと女性がホテルに向かうカットの後に、いきなりギョンスの尻がどーんと映し出される部分に特によく表れているのではないでしょうか。セックスの最中の男の尻の「間抜けさ」が、服を脱いだり前戯をしたりという部分を省略することで明らかにされています。
この「尻」という装置によって、自分の後姿を見るかのように観客は「物語を演じているにすぎない自分」に気づき、そしてその「間抜けさ」をなかば自嘲的に笑うことになります。それは最後にソニョンの家の門の前で、雨の中とぼとぼと帰っていくギョンスの心境と重なるものでしょう。
なかなか良い「恋愛映画」を観た、と思いました。ほかに良かったと思える「恋愛映画」というと、『藍色夏恋』や『トーク・トゥ・ハー』、そして『クライング・ゲーム』があります。特に『クライング・ゲーム』については、スラヴォイ・ジジェク先生の『快楽の転移』の第四章「宮廷恋愛、もしくは〈もの〉としての女性」において論じられています。ジジェク先生は、ラカン先生の言葉を借りながら、「恋愛」についてとても美しい話をしていると思います。「恋愛」の秘密に触れるようなスリリングな部分なので長くなりますが引用します。

eromenos(愛される者)が、その手を延ばして「愛を返す」ことにより、erastes(愛する者)へと変わる崇高な瞬間がここにある。この瞬間は、愛の「奇跡」、「〈現実界〉からの答え」を表している。このことから、主体自身は「〈現実界〉からの答え」の状態にあるとラカンが主張しているときにその念頭にあるものが把握できるだろう。つまり、この逆転が起きるまで、愛される者は対象としての身分をもっている。つまり、愛される者は、自分では気がつかない「自分の中以上のもの」である何かのために愛されている。「他者に対する対象としての自分は何者なのか。他者がわたしに何を見てわたしを愛するようになるのか」といった問いに答えることはできない。そこである非対称が立ちはだかる。主体と対象という非対称だけではなく、愛する者が愛される者の中に見るものと、愛される者が知っている自分自身の姿とが一致しないという、より根源的な意味における非対称である。
ここで、愛される者の位置を定めている逃れがたい行きづまりに気づく。他者がわたしの中に何かを見てそれを欲しているが、わたしはわたしがもっていないものを与えることはできないというものだ。または、ラカンの言葉を借りれば、愛される者がもつものと愛する者が欠いているものとの間には何の関係も存在しないとも言える。愛される者がこの行きづまりを抜け出す方法は一つしかない。愛される者が愛するものに向かって手をさしのべて、「愛を返す」のだ。つまり、象徴的な身振りでもって、愛される者の地位と愛する者の地位を交換する。この逆転が主体化の時点を指し示す。愛の対象は、愛の呼びかけに応えた瞬間、主体に変容する。こうした逆転が起こって初めて、真の愛が出現する。ただ単に他者の中のアガルマに魅了されているだけでは、真に愛しているとは言えない。愛の対象である他者が、実はもろくて失われたものであること、つまり「それ」をもっていない者であることを体験しても、愛がその喪失を乗り越えた時にこそ、真に愛していると言える。
この逆転の時を見逃さないように、とくに注意しなければならない。愛する者と愛される者という二元性という最初の構図はなくなり、今や二つの愛する主体となったが、非対称はやはり存在する。なぜなら、対象自身が、主体化によって、いわば自身の欠如を表明しているからだ。ひどく人を当惑させるような、スキャンダラスな何かが、この逆転の根底にある。神秘的で魅力的でするりと身をかわしていた愛の対象は、そうした何かを利用することによって、自身の行きづまりをあらわにして、新たな主体の身分を獲得するのだ。

ジジェク先生の言う「崇高な瞬間」を目撃したくて、私は映画館に足を運んでしまうのです。そして『気まぐれな唇』の中で、セックスの後に二人の女性が残す置手紙に書かれていた「わたしの中のあなた、あなたの中のわたし」という一言に、その瞬間を見出したいと、「間抜けな尻」を振りながら、「物語」に絡めとられながら、思うのです。