で、レーニンって何した人?

『グッバイ・レーニン!』を見た、と思う。
見たと言い切れないのは蓮實先生のせいだ。

瞳はあらゆる瞬間に目覚めているわけではない。視界に浮上するすべての対象を万遍なく知覚しうる視線というものも存在しない。上映時間という時間的な限界と、スクリーンという空間的な限界とを持つ一篇の映画の、その数秒の画面であろうと、そこに推移する光と影の運動をそっくり認識しうる人間は絶対に存在しない。(・・・)一般に、人が映画を見ると呼び捨てているところの体験は、より多くのものを積極的に見ずにおくことの同義語でしかない。見るとは、だから、複数の情報群を差別の対象とするというきわめて反動的な姿勢なのである。
(『映画 誘惑のエクリチュール』「触覚的体験としての批評」蓮實重彦

このような蓮實先生の主張に対しては、「まあ、でもそれって極端な話じゃないですか」と「徹底的な中途半端性」(内田樹先生の『ためらいの倫理学』より)でもって受け流そうと思う。それでも上の文を引用したのは、『グッバイ・レーニン!』が「積極的に見ずにおくこと」についての映画だったと思えるからだ。
東ドイツにおいて、社会主義を信じる母親が、デモ行進に参加している息子の姿を見て心臓発作を起こす。意識不明だった母は、ベルリンの壁崩壊などの劇的な変化を知らぬまま。やがて意識を取り戻した母が真実を知ればショックで死んでしまうだろうと考えた息子は徹底的に嘘を突き通そうとする。
息子によって作られた「嘘の東ドイツの部屋」、「嘘の東ドイツの物語」を母親は「見る」。しかしそれは「複数の情報群を差別の対象とするというきわめて反動的な姿勢」だと思う。そういった点で、『グッバイ・レーニン!』は、蓮實先生が指摘しているような「映画と観客」という関係を、「ドイツと母」という関係として提示していると思う。
本当は、大学の恩師から「『視ること』が触れざるをえない内部と外部という問題系」が繊細かつユーモラスに描かれている『グッバイ・レーニン!』は必見、とメイルを頂いたのでそういうことを発見したかったのだが、「『視ること』の内部と外部という問題系」とは何かよく分からなかったので、苦し紛れに蓮實先生の話を持ち出してみただけだ。恩師に「内部と外部という問題」について学ぶための文献を教えて貰おうとメイルさせていただいたので、とりあえずそのお返事を待ってみようと思う。
ただ、恩師も指摘していらっしゃった「銅像と人間というヒッチコック的図像処理」は誰にでもはっきりとわかる素晴らしいシーンだし、「コカコーラの巨大な垂れ幕と息子」もなかなかおもしろかった。だからこの映画を見れたのか見れていないのかわからないが、多少は得るところもあったのだろうと思う。それにキューブリックからのお茶目な引用もあるので、キューブリック好きは必見、かもしれない。
あと、『グッバイ・レーニン!』のテーマ的な問題として「人生における『物語』の必要性」があると思う。普段自分が「物語」に乗っかっていることを意識するといやぁな気分になったりするが、「嘘の東ドイツという物語」を息子が懸命に作り出したお陰で、母親は幸せだったのではないかと言われれば、確かに「物語」も必要なのかもしれないと思ったりもする。
それでもやっぱり自分が「物語」に乗っかって生きているのはいやぁなものなので、いやぁだと思ったときは「屁をこく」ことで「物語」を拒絶しようとしてきた。しかしほんとうに「屁」で「物語」を拒絶することはできるか。
できない、と柄谷行人先生は言う。『反文学論』を読んでいたらこんな文章に出くわした。

安岡氏がいうように、日本人にとって、「屁」は生理的・物理的なものであるだけでなく、ある意味を帯びている。つまり、「屁」は言葉なのである。

つまり、「屁」は言葉であり、物語なのである。柄谷先生が取り上げている、安岡章太郎先生の「放屁抄」、ぜひ読んでみたい。