お笑いの話

もう四月イッピから仕事が始まっちゃうから、ほんとにユウウツで、街歩いてても眩暈がしたくらい。これまでにこんなに気が滅入るようなことがあったかなかったかわかんないけど、とにかくここはひとつ好きなお笑いライブでも見て心を落ち着けようと思ったんだよ。
それでこないだタワーレコード千原兄弟先生と渡辺鐘先生の『プロペラを止めた、僕の声を聞くために。』とシティーボーイズ先生の『NOTA恙無き限界ワルツ』を買った。
見たよ、『プロペラ〜』。おもしろかった。でもそんなに新しいことやってるわけじゃないよね。どっかに「新しいコント」があるなんて思ってもいないけどさ。
たとえば一番最初の「ムード」ってコント、これは「ムード」って響きが面白いんじゃないかってことで「ムード」って言葉を繰り返し繰り返し使ってる。言葉の響きの面白さに注目するっていうのは松本人志先生もよくやってきたことだと思うんだけど、それって「こどもの視点に立ってものを見てみる」ってことじゃないか。大人が使ってる言葉のシニフィアンシニフィエをこどもの立場から切断して、響きだけに注目して自分の口が面白がったものを繰り返してみるってこと。
この「こどもの視点に立ってものを見てみる」って行為は「構造主義」にみられる発想の仕方と通じるものがあって、だからこそ、ちょっとしたインテリ(自分を含めて)はみな「お笑い」のことをいろいろと分析したがったりするんじゃないのかな。
インテリの話はおいといて、『プロペラ〜』のDVDを見てて、一番つっこまなくちゃいけないだろうと思ったところは、舞台挨拶で三人が「ライブTシャツ」を着てたことだ。
「ライブだからTシャツを作ろう」という発想、そして「Tシャツを作るからにはカッコいいデザインにしよう、もちろん『プロペラを止めた、僕の声を聞くために。』ってロゴは英語にしよう」という発想は、「こどもの視点」から見たら「なんか恥ずかしい」ことだと思うんだけど、どうだろうか。「Tシャツなら英語」って、すごく「大人の発想」でしょう。
あと「お笑いDVDコーナー」に行くと、いつもいやぁな気分になる。「お笑いDVD」が普及しだしてから、お笑いの「作品」化が進んでる気がするから。あのDVDのジャケットのカッコつけた感じが「なんか恥ずかしい」。それに「お笑い芸人へのインタビュー」も最近雑誌などで目にするけど、みんな真剣な顔して語ってて「なんか恥ずかしい」。
この「芸人さんがインタビューで真剣に語る現象」は、松本人志先生の『遺書』以降に頻発しているように思う。松本人志先生は『遺書』において、お笑いの世界を作家主義へと導いちゃった。「笑いの神」をつくっちゃった。
「笑いの神」なんて降りてこないからね。作家主義なんかうさんくさいだけだからね。
そういう「なんか恥ずかしい」という気持ちを持って、作家主義によりかからず、「作品」ではなく「テクスト」としてコントやドラマをつくってるのが宮藤官九朗先生だと思う。彼の基本的な手法は「サンプリング」だと思うし、写真でいつも含羞のある顔をしてるところがそれを示してると思うんだけど。
そんな宮藤先生も絶賛してるこの『プロペラ〜』、これだけごちゃごちゃ言っても、おもしろかったんだよ。「少年と鹿と鉄骨」みたいな、状況そのものが面白いってコントは好きだ。だからああいうコントでは、「言葉の響き」的なギャグは控えて欲しいとも思う。「203号室」ってコントで降ってた「眼鏡の雨」が、「無情の儀」でも降ってくれば、シティーボーイズ先生っぽいな、とも思った。シティーボーイズ先生の『真空報告官大運動会』で、「だるま」とか「リス」とかが何度も姿を現してどんどんごちゃごちゃしてくる感じがどうも好きなんだよ。あのごちゃごちゃしてくる感じはカート・ヴォネガット先生にもあって、そっちもどうも好きなんだよ。この「ごちゃごちゃ好き」の理由は一度しっかり考えてみる必要があると思うよ。
でもさ、『NOTA』のDVD、「権利関係の諸事情により、音源の一部をそのまま収録できない」とかいって、セリフをテロップにしたり音差し替えたりされちゃうとすごく悲しい。一番楽しみにしてた「首の皮一枚ショー」が台無しだったじゃないか。あのライブの時は、実際に生でみることができたから、あの「ショー」に大興奮したのを覚えてる。特に電飾のついた巨大な文字盤が上から降りてきたときは大喜びで手を叩いてた。
でも仕事はじまったらもう生のライブは見に行けないんだよなぁ、それにこんなにお笑いの事を長々と語って「なんか恥ずかしい」しなぁ。
明日からは頭空っぽにして銀行の基本業務をしっかり詰め込んでいこうと思う。簿記の勉強も再開しなきゃなぁ。