四月二日(金)

仕事から帰ったぼくは、パソコンを開いて恩師から届いたメイルを読んだ。そこには『グッバイ・レーニン!』における「視ることが触れざるをえない内部と外部という問題系」についての質問に対する答えがあった。
恩師は「内部・外部」を「自己・他者」に置き換えてみると分かりやすいのではないかとヒントをくださった。「他者(権力)のまなざしを媒介とした内面(自己)の彫琢」「外部を媒介するまなざしの倒錯」。つまり、フーコー先生の「パノプティコン」やラカン先生の「鏡」の話を思い出せということだろうとぼくは思った。卒論でフーコー先生やラカン先生を扱っておきながら「内部・外部」と言葉を代えられただけで反応できないのは問題だ。まだまだ訓練が足りない。それにしても恩師の『グッバイ・レーニン!』解説は非常に感動的だった。解説を読む前はここまで感動できなかった、ということは、ぼくは恩師と同じ映画を視ながらなにも「視ていなかった」のだ。ここに全てを引用しておきたい。

『グッバイ・レーニン!』をご覧になったということで、それについて話をしましょう。前半で、アパートの外で行進がおこなわれ、それを家族がテレビを媒介して見ているシーンがありましたよね。その部屋は振動で揺れている。つまり、行進はすぐ真下の窓の外でおこなわれている。行進を「無媒介に」見ることが可能であるにもかかわらず、彼らはテレビ(権力の視線)を介して行進を見る。そう、あの映画は、良質な映画のすべてがそうであるように、視ることにかかわる映画にほかならないのです。
冒頭のシーンを覚えていますか?8ミリフィルムの画像をワイプイン・ワイプアウトさせて始まり、子供はブラウン管(他者・外部のまなざし)に映った宇宙飛行を通じて自分の夢を形成する。外部・他者のまなざしの内面化。その構図が終結部でにわかに崩れます。息子が作った偽ニュース・ビデオを見ながら、それが偽者だと知っている母親がブラウン管を見ながら息子自身に「無媒介のまなざし」を送るシーンです。われわれはあのワンシーンのためにあの映画を見続けてきたわけです。冷戦構造の崩壊やユートピア幻想の崩壊などは、あの映画のテーマでも何でもありません。『グッバイ・レーニン!』が視聴に値する映画足りえたのは、国家(内部と外部が拮抗する場)をまなざしの問題とつなぎえた点にあるはずです。

ここで指摘されている「外部・他者のまなざしの内面化」とは決して特別な事態ではない。保坂和志先生が『アウトブリード』の中で、ラカンの「想像界」を「〈“わたし”というものの像〉なり、〈“わたし”という認識〉なり、それらは他人の視線や他人による“わたし”の評価を仮想的に先取りすることで生まれる」と説明していることとあわせて考えると多少分かりやすいのではないかと思う。
「外部・他者のまなざしの内面化」と同様に、「媒介して見る」という行為も日常的なものであり、普段は意識されないが特別な事態ではない。それを「行進を『無媒介に』見ることが可能であるにもかかわらず、彼らはテレビ(権力の視線)を介して行進を見る」というかたちで前景化しているのだ。
上の二つが「特別な事態ではない」のとは反対に、「無媒介に見る」ことは特別な事態だと思われる。だからこそ、母親が息子自身に「無媒介のまなざし」を送る瞬間は感動とともに受け止められなければならなかった。それをぼくは見落としていたのだ。同じ金額を払って映画をみているにもかかわらず、これだけの差が生じていることは問題だ。もっとスッキリかつハッキリ映画をみることができるように訓練を続けなければならない。