四月三日(土)

社会人としての生活が始まってから初めての休日、とは言え二日しか出勤していないのだから休みとしての重みがない。出勤した二日間も、まだ研修前で仕事が全くわからないためほぼ何もしないに等しい状態で過ごしたのだから社会人としての重みもない。配属先は自宅から自転車で十五分、店舗の前には小学校があり今はちょうど桜が咲いている。昨日は信用金庫の一日を朝から夕方まで観察することができた。シャッターが閉まったあとの店内にいるのは不思議な気分だ。それはまだ自分がそこに属していないという意識から、店内を俯瞰するように見ているせいかもしれない。そのように俯瞰して気づくのは、「銀行は人の一生の縮図」ではないかということだ。新入社員という「子」は、まず預金係という女性(母)ばかりの空間で仕事をすることになる。店内から出ず、「母」に守られていた「子」は、やがて外回りの男性社員(父)のグループへと移される。そこで初めて「子」は店の外へ出る。その後は、年老いてから客として店に戻ってくる。ぼくの勤める信用金庫は田舎にあるのでお年よりのお客様が多い。顧客情報のファイルを整理していて、生年月日の欄に「T」の文字を見た時はさすがに驚いたが、とにかく多い。このように「人の一生の縮図」ということがわかったところで別にどうにもならない。ただ、もっと多様なものの見方を試みていくことは訓練には欠かせないだろう。現金輸送車が来ると必ずカラーボールと木刀を持って見張りをしなければならないのもひとつの訓練だ。その際、木刀をゴルフクラブと間違える上司と会話をしなければならないのも同様。
休日の今日は、友人のスグルが勧めていた『殺人の追憶』を観に出かけた。この映画を観て頭をよぎったのはフーコー先生の権力論だった。もちろん昨日恩師からのメイルを読んだからそれが意識されたのだろうが、フーコー先生の『性の歴史Ⅰ―知への意志』の一文と『殺人の追憶』に登場する「頭の弱い」男は確かに重なると思える。

一八六九年のある日、ラブクール村の農業労務者が告発された。彼はいささか頭が弱く、季節によってあちこちの家に雇われ、お恵み程度の食事を与えられて最もひどい仕事をあてがわれ、納屋か馬小屋に泊めてもらっていた。その男が、畑の傍で、少女にちょっと愛撫してもらったというのだ。彼がすでに何度もやったことがあり、人がやるのを見たことがあり、事実、彼のまわりで村の子供たちがいつもしているようにだ。森の入口や、サン・ニコラに通じる街道の傍の溝で、子供たちは「固まりミルク」〔集団オナニーのこと〕という遊びをするのが常であったからだ。そういうわけで彼は、娘の親たちによって村長に告発され、村長によって憲兵に告発され、憲兵によって裁判官のもとに連行され、裁判官によって有罪判決を下され、第一の医師に検査され、次いで他の二人の鑑定人に委ねられて、この二人は報告書を作成した後、それを刊行する。この話で重要な点は何か。それはその取るに足らぬほどの小ささにある。村の性現象の日常的事件が、村はずれで味わう取るに足らない快楽が、ある時点からは、単に集団的不寛容の対象となるだけでなく、法的行為の、医学的介入の、注意深い臨床医学的検査の、そして大がかりな理論構築の対象となり得たということだ。

ただ「頭の弱い」男が性的な件で捕らえられるという点が映画と共通するだけだが、「固まりミルク」という言葉の面白さにつられて長々と引用してしまった。しかし「頭の弱い」男を尋問する男は「刑事」という「権力」であり、映画の冒頭に「どちらが強姦魔で、どちらが被害者の兄か」という質問を受けた刑事の顔のアップのあと、ふたりの男が映し出される時、観客であるぼくのまなざしは確実に「刑事」という「権力」の視線になっているのだから、フーコー先生の権力論を思い出してみるのも無駄なことではないだろう。
「権力」のことに加えて思ったのは、「ポストモダン」ということだった。「無能な刑事と有能な探偵」という「探偵小説によくみられる図式」は、「権力がその力を失っている」という点で「ポストモダン的」なのではないかとは恩師の指摘だったが、この映画の主人公も「無能な刑事」だった。面白いのは、「有能な」方に重点をおくのではなく、あくまでも「無能な」方を描いている点ではないか。たとえば、『羊たちの沈黙』では、「無能な」FBI(権力)のボスではなく、クラリスに焦点が合わせられていたが、『殺人の追憶』は焦点の合わせ方が違った。話がずれてきたので「ポストモダン」に話を戻す。スラヴォイ・ジジェク先生は、『斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』の「第八章ポストモダンの猥褻な対象」において次のように指摘する。

(・・・)ポストモダニズム的手法はふつうのモダニズム的手法よりもずっと斬新に見える。なぜなら後者は、〈物自体〉を見せないことによって、「不在の神」の視点から中心の空無を捉える可能性を残しているからである。モダニズムの教訓は、構造という間主観的な機械は、〈物自体〉が欠けていても、つまりその機械が空虚のまわりを回っていたとしても、同じように機能できるということである。ポストモダニズムによる反転は、〈物自体〉を具体化・物質化された空虚さとして見せる。(・・・)モダニズム的なテクストの原型はサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』であろう。登場人物たちはゴドーがやってくるのを待ちながら、まったく何の意味もない虚しい行為を続けている。ゴドーが到着するとき、「何かが起きるかもしれない」。だが、「ゴドー」がけっしてやってこないことは誰もが知っている。なぜなら彼は無、すなわち中心の不在の名前にすぎないのだから。これと同じ物語を「ポストモダニズム」的に書き直したら、どんなふうになるだろうか。ゴドー自身を舞台に登場させなければならないだろう。(270-271)

殺人の追憶』は、犯人を見せないだけでなく、最後のシーンで犯人の顔は「普通の顔だった」と少女に言わせることで「ゴドー自身を舞台に登場させ」ているのではないか。実際にはもちろん犯人は「不在」だが、「ゴドーは至るところに存在し得る」と最後に付け加えている。したがって『殺人の追憶』は「ポストモダン」である、ということになるが、それを指摘したからといってどうにもならない。この映画でも「見ること」が問題になっていると思うが、スッキリかつハッキリ説明することができない。だからこんな無駄話ばかりになってしまう。「ポストモダン」がどうしたというのか。
渡部直己先生の『現代文学の読み方・書かれ方―まともに小説を読みたい/書きたいあなたに』の中で、島田雅彦先生はこう言う。

八〇年代というのは、二年間くらいの即席の勉強でポスト・モダニストになれたわけです。しかしそういうことは、時に過ぎ去ってしまうと、それこそ十年前のジャケットや、ズボンをはいているような気恥ずかしさがあるわけです。また、その程度のものでしかない。

ぼくもちょうど「二年間くらいの即席の勉強でポスト・モダニスト」になった。しかし八〇年代でもないのに「ポスト・モダニスト」を気取っていても馬鹿馬鹿しいと思うくらいの含羞は持ち合わせていたいと思う。それにこれから訓練を積んで目指したいのは「ポスト・モダン」の先にあるものなのだ。先ほど引用した保坂先生の『アウト・ブリード』もそういった試みではないか。『アウトブリード』は、間違いをおかすことを恐れずに考えようとしている点で見習うべき所が多い。
また映画の話に戻ると、『殺人の追憶』を見ていてもうひとつ思ったのは、やはり「物語」についてだった。『グッバイ・レーニン!』の時もそうだったが、自分の悩みを投影しすぎているような気もする。それでもやはり、刑事が尋問の際につくる「物語」などが気になった。「物語」から逃れることはできないのか。
それと同時に、「小説」とはなにか、それもわからない。「はてなダイアリー」で色々な人が書いている文章は「小説」ではないのか、「批評」と「小説」との区別はなにか、さらに言えば、すべての文章は「小説」と呼ぶことはできるのか。これは若き日の高橋源一郎先生の問いでもあるだろう。確か高橋先生は「自分が小説と強く思って書けばそれは小説だ」というようなことを言っていたように思う。それは置いておいて、読者が感じる「小説っぽさ」とは、「物語っぽさ」と同義ではないのか。保坂先生の書く「小説」と、評論集のような『アウトブリード』との違いはどこにあるのか。批評のような文章をすべてかぎカッコでくくって、「とノートに書いた。そして一杯の水を飲んだ」などと続けばそれは「小説」なのか。だとすると「小説っぽさ」とは「描写のあるなし、動作のあるなし」ということか。例えば渡部先生は『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』において、「自分は小説を書いていない」と言っているけれども、その根拠はどこにあるのか。『学べ!』自体が「小説」でない保証はどこにあるのか。ああ、なんだかオナニーがしたくなってきたぞ、しかしおれはこんなくだらないことをごちゃごちゃ考えながらスッキリしなくてはならないのか、馬鹿げている!