もっとしゃぶり尽くすべき、『文章教室』

さっそく勉強に移り、『文章教室』のこと。一通り読み終えて、すぐにまた読み直したいと思ったが、とりあえず一回目に感じたことを書いておこうと思う。
前にも書いたように『文章教室』は括弧を駆使して引用と地の文が組み合わされる構成になっている。この「括弧でくくる」という行為は、やり始めるときりがなくなると思う。たとえば、凡庸な文章、紋切型の文章を括弧でくくることで、「自分はその事を自覚したうえで書いていますよ」という「批評性」が得られると考えられる。でもそれくらい「自覚」的な人なら、何を書いても紋切型にしかならないというあたりまえの事(何を喋っても他人の言葉のように感じるのは私だけではないはず)を無視することはできず、そうすると全ての文章を括弧でくくらなければならなくなるのだが、それはもはや「批評性」でもなんでもないという気もする。
括弧でくくらずに、紋切型のパーツを前後関係によって違和感を覚えさせるように配置することで「批評性」を醸し出す方法もある(たとえば中原昌也先生のような)。
『文章教室』の面白さは、このふたつの「批評性」からは少しずれたところにあるように思う。言い換えるならそれは「洗練されている」ということなのだろう。読み進むと、括弧の中と地の文とが違和感なく「編み上げられて」いるように感じたり、逆に括弧の中が浮き上がって見えたりする。こういう状態にするには、文章を非常に細かいレベルで調節しなければならず、感性の問題というよりはむしろ徹底的な計算が必要であるという技術的な問題に思える。技術を磨くことは、とても面倒できつい作業なので、その苦労を思うと軽いめまいがするが、《書くことと読むことは生きることとほとんど同義》なので絶えず努力する必要がある。
また、もっと根本的な話をすると、小説というのは文字で書かれているわけで、本のページを開いてぱっと見た印象が面白い・面白くないということも意識したほうがいいと思う。文字がいろんな括弧に囲まれた様子は眺めとしてちょっと面白そうな感じがするし、たとえば、ひらがなばかりで書かれたページの中に、一文字だけ漢字が置かれていたらそれは目に面白く映るのではないか。そうした字面の面白さという話のついでに、『文章教室』の会話部分で気になったことも書きたい。『それなりガイド』において渡部先生はこう指摘している。

句読点をあまり使わない書き方も一考に価する。この模範が谷崎潤一郎の『春琴抄』ですね。句読点をできるだけ使わないでかつ意味の通る文章を書くという訓練は勉強になります。ワープロだとついつい小刻みに点を打ってしまうでしょう。あれをやめてみる。句読点は文体の可能性を割りと限定するものだから。それから、会話のカギ括弧もあまり安易に多用してほしくない。句読点にしてもカギ括弧にしても、ここで意味が切れるとか、ここで人が話していますというきわめて人為的な印でありながら、それが印であることを忘れさせようという記号、さっきの話で言えば、現前性を都合よく保証する記号なわけですね。これに頼らないで書くのは勉強になりますよ。

『文章教室』では、わざと会話がカギ括弧だけで書かれているところと、それとは違って戯曲のト書きのような形式で書かれているところがあり、両方とも見た目は異なるが、前者は渡部先生の言うように「人為的な印」としての「台詞」、後者はそのまま台本としての「台詞」であることを示す効果があると思う。どちらか一方の形式に統一するのではなく、二つのアプローチを試みることで、「だれかの言葉を喋っている感じ」を多面的に捉えようとしているのではないか。
あとは、三人称多元描写のお手本としての場面つなぎの鮮やかさにただ感心した。思いついた順番に書き留めてみただけだが、感じたことはこの程度のことじゃないだろうかという不安が頭をもたげる―きちんと小説が読めているのか。