バカにされない方法

しばらくぼくの話を聞いていただきたいと思うんですが・・・・何から話そうかな・・・・みなさん本は読まれますか?そうですか、お若い頃は、なるほど・・・・僕は最近『道化師の恋』を読んだんです、金井美恵子先生が書かれたんですけれども・・・・その前は『文章教室』を読んで、それも金井先生のもので、ああ、失礼しました、カ・ナ・イ・ミ・エ・コ、先生です・・・・とにかくその『道化師の恋』もとても面白かったんですよ、学生作家としてデビューすることになった善彦くんや、『文章教室』でユイちゃんに恋をしていた現役作家や、桜子さんやそのお母さんや―桜子さんと中野勉さんの間に子供が生まれたので、彼女はもうおばあちゃんなんですが―みなさんにもかわいいお孫さんがいらっしゃるんでしょうねえ―そういった色んな人が登場するんですよ・・・・その新人作家の善彦くんが、母親のいとこで元女優の、とても美しい―その美しさは手術によるものでもあるんですが―颯子さんとの恋をもとに『道化師の恋』という小説を書いているんです、ちょうど今文庫本を持っているので、少し読み上げますね。

『道化師の恋』は次のような文章ではじまる。
「おふくろという存在は、世界中、エスキモーでもホッテントットでも同じだと思うけど、結婚する前の娘時代史とも呼ぶべき写真アルバムを持っていて、その布張り表紙には三色スミレの刺繍なんかがついている・・・・・・」

少し読むのが速かったですか、大丈夫ですか・・・・実際に善彦くんが書いたこの小説を読んでみたくなったりもするんですが、そうした感想もこの本には書き込まれていて、66ページを開くとほら・・・・

ぼくは書き出しのところ、覚えてるなあ、まだ私は小説の中の人物を作り上げるには若すぎる年齢だから、ただ事実を物語るのみで満足しておこう、というんですよね、そういう書き出しって、ようするに作家は、ある第三者に聴いた話を事実そのままに記録しただけなのだ、とか、ある経緯で入手したある人物の書いた手記の原稿を、明らかな誤記や著者の勘違いと思われる箇所を訂正したのみでそのまま本にする、とかなんとかいう編集者の序文がついたりする、そういう書き出しね、古めかしい十八世紀や十九世紀の小説の常套的スタイルではあるけれど、なんか、こう、いよいよ、小説=物語がはじまるぞって感じで、いいですよね、

これは善彦くんに対するインタビュアーのお喋りなんですが、あなたたちの考えることはすべてお見通しよ、なんて金井先生に言われてるような気になりますよね・・・・そんな先生ですから、もちろんバカにするなんてことはありえないことですね、でも「金井先生をバカにすることができない理由」、この場合はもっと限定して、『道化師の恋』をバカにすることができない理由を考えてみたいと思うんです・・・・なぜって、ぼくもなるべくバカにされないようにしたいからですよ・・・・あれ、おじいちゃん、もうお帰りになるんですか、もう少しお待ちいただけませんか、ぼくの話はつまらないかもしれませんけど・・・・そんな肌着一枚で乳首をくっきりと見せ付けてぼくを誘惑しようったってそうはいきませんよ・・・・

颯子・フラーとの燃えるような恋が終った後でも―恋に終わりはないのだが―彼は、母親が薬箱がわりにバンド・エイドや包帯や正露丸や痛み止めを入れて用意してくれたモロゾフのチョコレートのブリキの箱を見ると―正露丸を五粒か三粒飲むために、その箱は再々開かれるのである―あの大仰で美しく黒い豊かな胸の上でキラキラ輝いていたネックレスを思い出し、その下の黒い布地に包まれた白くて豊満で濃いバラ色の尖った乳首―ミーシャの勃起した小さな痛々しくふるえる突起物に、奇妙なことにそれは似ているような気がしたが―へと思いをかり立てつづけるのだった。

たとえば今読み上げたこの部分、渡部直己先生の仰るところの「汁粉に塩」といったワザに似ているような気がするんです、「恋愛に正露丸」・・・・つまり恋愛を美しく演出するために―美しいものをいっそう美しくするために―とても現実的なものをあわせていくということなんですが、ほかにも颯子さんに「顔の皺を引っぱって縫い縮めたあと」があったり、ここもおもしろいんですが・・・・

あたしは恋をしている!
と、まさしくエクスクラメーション・マーク付きで思うことと、食欲の間には相関関係はなくて、中野桜子は、電話で注文すると「三十分、お宅の玄関におとどけする熱々のピザ」を、約四分の三、食べた。ハムとパイナップルの味が思いのほかにぴったりで、そういえば、酢豚という料理には、中華料理店によってパイナップルが入っている場合があって、豚肉とパイナップルというものは、「出あい物」なのかもしれない、などとも、桜子は若い主婦らしく考えもしたのだった。

「恋愛に酢豚(パイナップル入り)」とでも言うんでしょうか・・・・似たような手法はもっと挙げられるとも思いますがこのくらいにして、こうしたやり方は「汁粉に塩」といった効果以外にも、「バカにされない」という効用があるような気がするんです・・・・・・つまり、正露丸や酢豚といった甘い恋愛と対立するような物、逆の方向性のものを並べていくことで、偏りをなくし、バカにする隙を与えないのではないかと、「偏る=欠けている部分からバカにされる恐れがある」、そしてその偏りを無くせば、バカにする者が立つ場所を与えずにすむ、というごくごく当たり前のことを少し考えていたわけです・・・・・もう少しだけ待っておばあちゃん!なんですかそのカチューシャ、髪の毛がくっつけてあるんですか、要するにカチューシャをつけると髪の毛が増えて見えるんですか、それくらいの事じゃぼくは笑いません・・・・恋愛のことだけじゃなく、『道化師の恋』では新人作家と現役作家の考え方の対立も描かれていまして・・・

作家はきみのあれは、少し作りすぎという感じがしなくもないけど、しかし、確かに感性はいいね、感心したよ、などと言い、で、どんな作家のものを読むの?と、ありきたりの質問をするので、善彦は、小説はあんまり読まないんですよね、と答え、作家は、でも、と口ごもり、でも、小説を読まないで小説が書けるかい?と言った。

どうしてこの人たちは、映画を見なかったり小説を読まなかったりすることに大騒ぎするんだろう、と善彦は思い、どうしてなんだろう、と美しい顔を少ししかめるのだった。それ以外に、世の中にはもっといろんなことがあるのに、もっとずっと重要なことがあるだろうに。絶対、あるのに。

例えば、こうした対立する考え方が『道化師の恋』の中で提示されていて、両方用意されているからバカにすることができない・・・・ここで「バカにされる/されない」という話はひとまず置いて、小説というものは、作者の意見を登場人物が代弁するものではないという基本的なことを思い出したという話もしてみたいのですが・・・・・新人作家も、現役作家も、作者である金井先生からは突き放されているというか、距離があることは読んでいてわかります・・・『道化師の恋』は三人称多元で書かれていて、それはいわゆる「神の視点」とも呼ばれることがありますが、作者が自分の意見を登場人物にむりやり喋らせる行為の方が「神」っぽくはないでしょうか・・・・登場人物がそれぞれの考えを持って勝手に生活しているように見えるほうが、神の立場に立たないまともな小説のありかたなのかもしれないと思えるんです・・・・・・たとえ自分の分身のような人物を登場させるにしても、それはあくまでも「分身=他人」だということは覚えておいたほうがいいだろうということです・・・生きてきた年数からしても、みなさんのほうがよくお分かりだとは思いますが・・・・・・調子に乗ってしまいました・・・調子にのりついでに「バカにされない方法」に話を戻しますと、自分から「バカです!」と宣言しておくというやり方も、もちろんあって・・・・『バカサイ』という本―天久聖一先生らが選んだ、雑誌の投稿コーナーのギャグを集めたものです―もぱらぱら眺めていて、『バカ』と宣言していることからもそれは明らかで・・・・「的確な判断とタイミングで脱ぐストリーキングです。」とか「跳び箱に 腹から激突 小学生」とか「キリストは俺にホの字だったのか?」とか「文珍か人糞かチンプンカンプン」とか、くだらなくて面白いギャグがたくさん載っているんです、面白くて好きだし、バカにできないんですけれども、こういう姿勢って、どこか「お化けになっちゃえばお化けは怖くなくなる」と考える子供みたいだと思いませんか、「バカになっちゃえば」という・・・・そのくせ「バカになっちゃう自分はそのぶん他の奴より頭/センスがいい」と自負するような・・・・・決して『バカサイ』が嫌いなわけではなくて、むしろ好きなんですが、「バカになれる自分、いかがです?」という匂いを嗅ぎ取ってしまうと興ざめしてしまう・・・・・辛酸なめ子先生の『ニガヨモギ』もぱらぱら見ていて同じような印象を受けました、「下手くそな絵」で「バカのポジション」に立ち、そこから身の回りの見も蓋もないことを指摘していくといったやり方かなと思ったんです・・・・ぼくはバカにされるのがいやなので、そうしたやり方だっていくらでも使っていきたいとは思いますが・・・・・どうせやるなら本気でバカそのものになる必要があって、バカそのものはタイトルに『バカ』という言葉を使わないはずでは・・・・天久先生の漫画はまさに本気でバカそのものになっている所が尊敬できると思うのです・・・・・
「心配しなくても、あんたホンモノのバカだ!」「いったいいつまでくだらないこと喋ってるつもりだい?あたしらは年金相談に来てるんだよ!」ついに耐えかねた老人達が席を立ち、ぞろぞろと出て行くお年よりの姿を見た事務副長は、年金相談会・会場になっていた二階の会議室に駆け込み、Mを怒鳴りつけ、怒鳴られたMは、キレた。入庫してまもないMはまだ若者であり、若者といえばキレるもの―すぐにキレる、すぐに辞める、バブルを経験していない世代―なのだから仕方ないことだ(「若者」を「ワカモノ」と言い換えたなら、それは「井上和香の物」であり、つまり「井上和香が撮影の際着用したビキニをプレゼント」ということになるはずで、もらった水着をどうするかはともかく、キレることはないだろうに)。Mは階段を駆け下り、防犯用のカラーボールを掴むと、支店長の顔面を目掛け力いっぱい投げつけ―Mの耳には、支店長の「メイク・ミー・カラフル!カラー・ミー・ポップ!」―厳密に言うと「パップ!」だった―という絶叫が届いていた―、ボールは炸裂して支店長はオレンジ色に染まった。支店長の絶叫はもちろん幻聴だったのだが、その原因は実は事務副長の机の上にあった。彼の机の上には、

  1. おごるな
  2. いばるな
  3. あせるな
  4. くじけるな
  5. まけるな

といった自分に対するメッセージが書かれていて、頭文字を並べると「おい悪魔」になるため、この呪文によって呼び出された悪魔がMの耳元で囁いてしまったのだ。最初の二つがもし「ねるな」「えばるな」で、「ねえ悪魔」と優しく呼びかけたならこのような事は起こらなかったのかもしれない・・・・・・人生とはまったく、何が起こるかわかならい、と、Mはつぶやいた。

情熱的な抱擁の後で、涙で睫毛をきらきら光らせながら、いつかはあなたはあたしから離れていくわね、という桜子の言葉に、絶対そんなことはないし、ぼくたちは結婚するよ、と真剣に答えながら、きみこそ彼と離婚する気がないんだと、なじったことが不思議にさえ思えて、たとえ、また小説を書くようなことがあっても、そんな陳腐な会話を、とても書く気になれないだろうと考え、とりあえず、人生と小説は違うから、という結論に達し、桜子に対して、あふれるような同情を感じるのだった。

『道化師の恋』の最後はこのように締めくくられていて、「人生と小説は違う」と言ったって、陳腐な会話をしてしまう人の姿が描かれているこの小説のどこが人生と違うのか、『道化師の恋』は人生そのものじゃないかと思わされ、小説は人生なのだから、登場する人に食事をさせたり、服を着せたり、時には病気の看病をしたりしなければならない・・・さて、Mの人生をこれからどうするべきか。