イキイキしている/していない問題

元気

今週は金井美恵子先生の『タマや』を読んで、『文章教室』→『道化師の恋』→『タマや』というのは四部作の順番を間違えていたことに気づき、ああこれはスターウォーズみたいになっちゃったなとどうでもいいことを思ったりもしたけれど、楽しめたから良かった。
『タマや』を読んでいて、すごくレベルの低いことかもしれないけれど、登場人物がイキイキしているように感じ、それはどうしてなのかと気にかかり、そもそもイキイキしている/していないとはどういうことか考えてみたいと思った。
『文章教室』と『道化師の恋』とが三人称多元だったのに対して、『タマや』は一人称で書かれていて、それで印象がどう違ったかというと、毒気が薄まったかなと感じ、そもそも毒気はどこから発生していたのかというと、それは人物と作者との距離からなのかと思った。
毒気なんて言い方はおかしいかもしれないけれど、なぜだか金井先生はおっかない人だと思いこんでいる節があって、それはもしかすると文庫本の後ろの写真のせいなのかもしれず、写真の刈り込まれた頭は、一瞬ラッシャー板前を想起させる―あとから古本屋で『タマや』の単行本を見つけて買ったら、ボーダーのセーターを着て耳の辺りを掻いているチャーミングな金井先生の姿があり、著者近影に読み方を左右される自分はどうなのだろうとも思ったのだけれど―単行本の方は、表紙に小説の中にも話が出てきたアンナカリーナの写真が使われていて、文庫本の猫の絵とはまったく印象が違う―やっぱり最初に目にするのは表紙なわけで、金井先生は小説の、「図書館に並ぶ本」としての側面にも責任を持つ、立派で、すこしだけおっかない方なのだろうと想像する―そういえばその古本屋がなかなか面白いところで、職場から自転車に乗り、大きな踏切を越え、市役所の前を通り過ぎ、紳士服屋と安売りの靴屋も過ぎ、レンタルビデオ屋の角をまがり、その裏にある小さな動物病院のさらに裏に、ある一見普通の民家なのだけれど、一階が古本屋になっていて、玄関はそのままだから靴を脱いで上がりこむことになり、そこにはホームセンターで買ってきたような本棚に囲まれて、定年退職後らしいおじさんが座っている。おじさんの頬には親指二本分くらいのコブがあり、最初は舌を遊ばせてふざけているのかと思うのだけれど、それは実はコブなのだと気づくことになるので、こちらもふざけずに落ち着いて本を選ぶことができるから、仕事帰りに立ち寄りたくなる。ただ、民家なのでおじさんとお客さんとの距離が近すぎて少し気まずいようなところはあるかもしれない。
人物と作者の距離、という話に戻り、毒気の話はひとまず置いて、この作者というのをカメラと置き換えて考えてみるのはどうか、そこで最近DVDで観たカサヴェテス先生の『こわれゆく女』と合わせてイキイキしている/していない問題と向き合っていくことにしたい。
樋口泰人先生によれば、カサヴェテス映画には「写っているのは僕の知っている人間だ」という言説がつきまとうものらしく、それは『文章教室』に書かれているのは僕の知っている人間、あるいは僕自身だと思わされそうなのと、重なるような気がする。
このホンモノのキャシー塚本みたいな女性が登場する『こわれゆく女』の、「ホンモノっぽさ」つまり「イキイキ感」はどこから来ているのかというと、人物がときどきフレームからはみ出すから、というのが答えのひとつとして挙げられるような気がするのだけれど、どうだろう。
フレームに人物が収まりきらない→映画の都合で人物を切り取っているように見えにくい、あるいは、フレームからはみ出た部分を観客の中で補うことになり、どうやらその観客が自分で補う部分というのが「イキイキ感」に繋がるのかもしれない、と思える―はみ出る部分が、フレームの外でも観客と同じ空気を吸い、食事をするような、蓮實先生の言葉を借りるなら「自分の輪郭におさまっている」ような人物を描出するのか、と。目白四部作でいうなら、一作一作の間にそのはみ出た部分と同じような空間が存在するだろうし、『タマや』の終わり方もどこかはみ出すような余地を残す終わり方とは言えないか。また、距離について言うなら、『こわれゆく女』での「はみ出す、ぎこちなさげなカメラ」の存在感を、『文章教室』や『道化師の恋』から感じたカメラの存在(毒気を含む)を合わせてみるとどうなるだろう、どうにもならないだろうか。
この距離感はとても重要で、『タマや』は一人称を用いることで、距離が近くなり、カメラが近づくほどはみ出る部分も多くなるために「イキイキ感」が出る、というのはどうか。それに対し、『文章教室』や『道化師の恋』では、ある程度距離を置いているために、フレームに収まりやすく、それによって「操られ感」が出る―この二つの小説のおもしろさは、人物ひとりひとりの生活を細かく書き込むことで、実際に生きている人のような生々しさ(イキイキ感)を出しつつ、カメラの距離によって同時に「操られ感」も出している所にあるのかもしれない思えてくる―『こわれゆく女』だと、割りと近い距離ではみ出しがちに撮影しているところと、工事現場の崖のように離れた所から全体が見えるようなところがあり、ひとつの距離感に偏らない→バカにされないということになるのか―バカにされる/されないというより、単純にチョコレートもいいけど普通のバニラもいい、だからミックスソフトにする、といった欲張りな人を満足させてくれる気がする。工事現場の崖の後で海辺のシーンがあるけれど、ここがとてもよくて、スタジャンに短パン姿の男や、もろに幼児体型(というか幼児そのもの)の女の子が駆け出すところなど、間抜けで美しい―そのあとトラックの荷台でビールを飲むところもいいし、車を降りてすぐグルグル回りだす子供たち(もちろんフレームからはみ出す)もいい、もっと前の、ベッドの上に家族が集まる所、あそこで女が着ていた青と黄色のガウンもいい、すべて間抜けで美しくて、こういう小説が読みたい/書きたいと思う。
どうも疑問が中途半端なままだけれど、毒気の原因についても気になる―たとえば『文章教室』の面白さは、お笑いでいうところの「ああ、そうことってあるある」というお喋り―長井秀和先生とかがそうなのか―とは違うのか、似ているのか―長井秀和先生の毒は何処にあるのかといえば、口もとを歪ませて喋る素振りにもあるのかもしれないけれど、そもそもある種の事柄は指摘すること事態が毒気をはらむのかもしれず、そのある種の事柄というのはつまり我々が普段思ってはいても口にはしないこと、薄々気づいてはいても自分を美化するために気づかないようにしていることであり、普段気づけない/気づかないことにまなざしを向けることには「気づかなかったけど、そうだった!」とか「口にはしなかったけど、そうだよね!」という気持ち良さが潜み、それがおもしろさに繋がるのかもしれない。だから小説のおもしろさを追求する過程で自ずと毒気はついて回るものなのかもしれないということで納得していいのか、いけないのか・・・・・・距離と毒気の関係は・・・おもしろい小説を書こうとする作者には毒気がついて回るものであり、距離を感じさせるほどカメラとしての作者(毒気)の存在感が前景化されるということで納得していいのか、いけないのか・・・・・・