『ロスト・イン・トランスレーション』について、だらだらした感想

このまえの土曜日に『ロスト・イン・トランスレーション』を観て(今インフォシークのテキスト翻訳でタイトルを訳してみたら「翻訳の中で失われました。」と出てきて、〈そうですか、失われましたか・・・それは大変でしたね・・・・〉と思ったんですが)、なんとなくおもしろかったと思いつつ、なにがおもしろかったのかよくわからないままほったらかしていたものをもう一度拾い上げてみる気になったんです、今日。
ピンク色のパンツに包まれたお尻のアップからはじまり、〈そうですか、お尻ですか・・・・可愛らしいお尻ですね・・・・〉と思ったんですが、とにかくこのシャーロットという女性は散らかった部屋で、パンツ一丁で、だらだらしていて、それは『ヴァージン・スーサイズ』で部屋に閉じ込められてだらだらしていたのと同じで、ソフィア先生はよほど散らかった部屋で、パンツ一丁で、だらだらしているのが好きなのだろうということが分かり―なぜ好きなのかはちょっと分かりかねますが―この映画はその散らかった部屋を東京というサイズに拡大したようなところがあるのかもしれないと感じ、拾い上げてみる気になったんでした、今日の午後に。
いや、だらだらしているのが好きなのかどうかもちょっと分かりかねます―でも、映画の中でシャーロットがずっと半べそだったり、不機嫌だったりすることを通じて主張していたのは、「あたしは観光なんて好きじゃない」ということのはずで―それなら、「観光すること」と「部屋に留まること」とを比べてみるとどうなるのでしょうか。日本にいること自体が観光であるとは言えないのは、東京にいるシャーロットの様子から感じられるのですが、ただ唯一、新幹線に乗って京都に行くところだけは、「観光」といった印象を受けました。なぜなら、京都のシーンだけが、手垢にまみれたような「旅番組風」だったからです、それはとても間抜けで、でも美しい風景だという―この京都のシーンが主張しているのは、「観光にいくということは、ありきたりなことであって、むしろ散らかった部屋こそおもしろい、だからこそドンキホーテのネオンサインなどにカメラを向けるの」ということだと思われ(したがって、「京都=観光」と対になるものとして、「東京=散らかった部屋」が考えられ)、それは映画の内容としての「あたし(シャーロット)は観光なんて好きじゃない」、と、映画の形式(撮影方法)としての「あたし(カメラ)は観光なんて好きじゃない」、とが重なっているということになり、以前から〈内容と形式がうまく作用している物はおもしろいはず〉と思っていたため、おもしろいと思ったのだったのだろうと思い、拾い上げてみたんじゃないでしょうか。
あと、ドンキホーテのネオンサインや、美しく輝く海のそばに建つ普通の旅館など、手垢にまみれたような風景をカメラを通じて見ることと、日常生活の場からは離れた京都の(普段の生活では目にすることは、ない、と思われる)風景を、普段の生活(テレビ・旅番組)で目にするような形で見ることとの二つを並べて提示してくださっているので、風景を見るということに含まれるおもしろさが伝わってくるのかもしれないという予感もあり、拾い上げてみたはずでしたし、「京都」と「東京」のふたつがあるから、カメラを通じて景色を見るという行為そのものが前景化され、そうした気持ちになったはずです。そして、前景化された「カメラを通じて見るという行為」によって、最後のシーン、つまりふたりが街中で抱き合うところ、あそこで「観光=雑踏の中で抱き合う」と「散らかった部屋=一見普通の、ロマンティックでもなんでもない道端」との衝突、その衝撃がより大きな物となり、その衝撃を、タイミング良く流れる「ジャスト・ライク・ハニー」が(タイミング良すぎて)間抜けに、(曲が素敵で)美しく、演出してくれたのだった、そんなことを今日の午後に書こうと思っていたのかどうかは、もうわかりません、ただ、昔カモンタツオ先生が「小市民」の中で、「旅行から帰ってきて、やっぱり家が一番だという、ああ小市民」といったようなことを歌っていたのを思い出しました、そんなことを思い出したかったわけではないんですけれど。
最後に、ずっと気になっていたんですが、ヒロミックスさんは何と何をミックスしているのか、よくわかりません。