「いま、ここ」で「生きること」

だいぶ前に拾い読みだけして、そのままほったらかしにしていた『表層批評宣言』をもう一度手にとって、最初のページから順番に読み進めて行くと、これがとてもおもしろく、2004年のいま、22歳で『表層批評宣言』を読んでおもしろいと喜んでいることがどれだけみっともない事なのかと考えずにはいられないし、そもそもこの「森島の学習」をたまに読み返してみると、田舎の泥んこプロレスを見せられているような気分になることがあり、ただ落ち込むのだけれど、まあ仕方がないかと思う。仕方がないかと思いながら、41ページの「擬似冒険者の末路」という文章を読んだ。

あらゆる「制度」に蔓延している怠惰な事実確認、それは、「未知」なるものはいま、この瞬間にここにはなく、したがって見えてはいないと信ずることであり、そんな「貧しい」確信が、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落とすのであり、そうした楽天的な魂たちは、自分に最もふさわしい仕草を、「未知」なるものを「既知」なるものへと移行させんとする「発見」の旅だと信じて疑わない。だが、存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いま、この瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、「彼方」を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、「既知」と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものを接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう。

この文章を通じて思い出したのが、少し前に読んだ金井美恵子先生の『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』だった。『小春日和』の続編として書かれたこの小説は、これまでに読んだ目白四部作と比べても、一番「いま、ここ」で「生きること」と深く関わっているように感じる。『彼女(たち)〜』を読んで感じるのはもちろんそれだけではなくて、「プラトン的恋愛」を扱った国語の問題が出てきたり、水商売のコンパニオン募集広告が出てきたり、それにもっと細かい部分でいろんな工夫があって、楽しい。
それと比べて、まあ比べるのもどうかという話だけど、早稲田文学の第二十回新人賞「ロマン戦」をみてみると、いろんな記号が使ってあったり形式に工夫があったりして、楽しげなんだけど、ちょっとくどいと感じてしまうようなところがある。いや、くどいというよりも、なんだかずるいというか、うまく説明できるかどうかわからないけれど、例えば、ホットドックを食べながら将棋をさしている奴がいたとして、そいつがピンチになったときに、急に食べていたホットドックからソーセージを抜き出し、将棋盤の上に載せ、「飛肉」などと勝手に名前をつけ、その「飛肉」を一回転させると周りの駒がバラバラと飛び散ってしまうような状況よりも、ソーセージを盤の上に載せず、手持ちの駒だけでいかに鮮やかな手を打ってくるか(羽生のように?)、そういうものが読みたいということだと思う。ワープロで出てくる記号ならすべて手持ちの駒だと言えるのかもしれないけれど、でも『彼女(たち)〜』を読んでいたら、とてもシンプルで鮮やかだと感じたので、もっと「いま、ここ」にあるもので工夫をしてみるべきではないかと自分に言い聞かせることにした。
かなり無理やりだし、意味がずれていると思うけれど、仮にそれが形式的な意味での「いま、ここ」だとしたら、内容的な「いま、ここ」とは勿論、「紅梅荘」のことになるはずだ。この小説は、「紅梅荘」が取り壊されそうだ、というところで終っていて、決して取り壊されて、どうしようどうしようとなって、という騒動でもって話を進めるわけではない。ただ「いま、ここ」に留まって、おしゃべりをしつづける。それだけで充分に読ませてくれるのだから、とてもすごいと思う。そのおしゃべりの仕方が、いろいろな問題を提起しつつも、それを解決して進んでいくことを目標としていない点で、徹底的に「いま、ここ」にこだわった小説ではないかと感じるからだ。そして「いま、ここ」にとどまり続けるなかで、とても美しい瞬間があり、ここだけを抜き出すことはこの小説のおもしろさを伝えることの手助けにならないどころか、それを妨げるかもしれないけれど、自分が読み返すためにここに書き出しておく。

それやこれやで日は過ぎ去って、あっという間に十年が過ったのだなあ、と、私は夕陽で空に浮かぶ雲が東側でも南側でも西側でも、丸くもくもくした大きなかたまりになってバラ色に染まっている夕方の空を眺め、ジョルジュ・サンドの『バラ色の雲』という短編小説を、倉の中に置いてあったおばさんの本棚から見つけて、子供の頃読んだのを思い出した。バラ色の雲が存在しているわけではなく、それは夕陽の光を反射させてバラ色に輝いているだけなのに、そういった、あてどのない、美しくて華やかで輝かしくて荘厳な影にあこがれる田舎娘の話しで、私には何の関係もないのだけど、巨大なピンクの綿菓子のようにバラ色に染まった雲を見ると、いつも、胸がわくわくするのだ。そこに夢見るものなんか、何もないけれど、薄い水色とごく薄い灰色と白の濁った空に輝いているバラ色の雲は、それが夜明けであれ夕方であれ、短い束の間の時間、幸福感で充たされる美しさで、私を呆然とさせてしまうのだ。

いま書き写しながら思ったのは、この文章の中では過去と現在と未来が「いま、ここ」「この瞬間」に凝縮されている、ということで、それは「子供の頃」を思い出している「私」を、未来からも見つめているような感覚(それは語尾が過去形になったり、現在形になったりすることでふらつく)で、そうした感覚は、誰もが実際に経験しているものかもしれず、そしてその経験には、「バラ色の雲」のような所があるような気がするからなのだろう。
ここまで書いてきたこの文章を後から読み返してみて、自分で理解できるのかどうか、そしてまた泥んこプロレスを見せられたような気分になるのかどうかははっきりしないけれど、一つだけ言えることは、自分はすぐに「ここではない、どこか」へと思いを巡らしてしまうところがあり、単純にそれがいけないことだとするのは避けるとしても、もっと「いま、ここ」を見つめてみたいし、そのための練習を始めなければいけないと思う。どうやって練習するかというと、公園のベンチにでも腰掛けて、「いま、ここ」でじっと風景を見つめてみる、ということはたぶんしなくて、ただ、もっとたくさんの本を読むしかないように思う。『表層批評宣言』の中にも色々な面白さが詰まっていて、そこから盗みたい書き方がたくさんある。そしてそろそろ本場のヌーボーロマンにも触れてみたい。2004年のいま、22歳でヌーボーロマン、それも大声では言えないような気恥ずかしさがあるけれど。