スパイダーマンとカフカ

このまえの土曜日に「スパイダーマン2」を観て、すごく気に入って、どこが気に入ったのかと考えながら生活していた今週も終わりに近づいたので、金曜日を締め切りとして気に入ったところを整理しておきたいと思う。
まず「スパイダーマン2」を観る前に立ち読みした蓮實先生の「スパイダーマン2評」があって、『映画の神話学』を書いた人が「スパイダーマン2」について何か書くなら絶対あの動きについて書かずにはいられないだろう、というギャグだと思った。たしかにあのスパイダーマンの動きは観ていて気持ちよかった。素晴らしいと思う。でもそれ以上に気に入ったところがあるような気がする。
スパイダーマン2」はどんな映画なのか、というと、「スパイダーマンという《人間》を描いている」なんて言ってしまうことができるように思うけど、変な括弧でくくる必要もなく、その人間の描き方がおもしろかったのかもしれない。
どんな風に人間を描くのか、映画のなかでどんな風に人間を描くのか、という疑問がまずあるとして、それはどんな疑問なのか。人物が勝手にでっちあげられた感じや監督の都合で動かされている感じをどうやって処理するのか、それとも処理しないのか、処理したりしなかったりするのかという疑問だとしておいて、「スパイダーマン2」ではどんな風なのかということを、映画を思い出しながら忘れてしまう前にメモしたい。
人物の漫画っぽさと、生身の人間っぽさとのバランスが気に入ったんじゃないか。漫画っぽさって、原作が漫画なんだから当然なのかもしれないけど、超人的な動きはもちろん、主人公の悩み方や、普段はさえないという設定の見せ方などが、すごくくっきりしていて、漫画っぽいと思った。自分が思う漫画っぽさとはくっきりしているということなのか、そんな単純でいいのか、そんな単純さこそ漫画っぽいんじゃないのか、単純だから漫画っぽいというのもどうか、という具合に漫画っぽさとは何かどんどん分からなくなってくるけど、でもやっぱり葛藤の見せ方とかすごくはっきりくっきりしていて分かりやすくて、分かりやすい分生身の人間っぽさはあまり感じられないと思った。
それでも、この映画が「《人間》を描いている」と思えるのは、スパイダーマンの超人的な部分に対して、マスクをとった瞬間や、糸が出ずにもがく仕草や、彼の半開きの唇などが用意されているからだと思う。
敵役を思い浮かべてみるともっとわかりやすい。つまり四本の機械の手が背中から生えているという漫画っぽさに対して、その機械の手の中心にいるのはだらしない身体のおじさんだということで、Drオクトパスみたいな名前も漫画っぽいと思うんだけど、そういえばユリイカのピンチョン特集をぱらぱら読んでいたら、「科学者ネファスティスは―彼は〈ファシスト〉をその名前の中に穏匿しているが―」とあって、それって「『まんが道』の主人公『満賀道雄』は―彼は〈まんが道〉をその名前の中に穏匿しているが―」っていうのと同じじゃないのか。
漫画っぽさというよりも、あの敵役が気に入ってたような気がしてきた。今思うと、お婆ちゃんがあの敵を殴るシーンがおもしろかったのは、お婆ちゃんがこんな元気な動きを!ということに加えて、毒蝮三太夫になんとなく似ている悪者がババアに殴られる、という要素があったからかもしれない。あの悪者の科学者、すごい発明をしたとか、核融合とか言ってるのに、重要になってくる四本の手はその核融合してるのを直接触れないから機械で、くらいの感覚で作っていたのと、核融合して大変なことになっているのを川に沈めればジュって消えるみたいな発想で問題を解決するのとが良かったと思う。
それにスパイダーマンも、責任とかなんとかで悩んでいるけど、もとはと言えばああいうコスチュームを着るのが好きな人なんだし、最後にものすごく嬉しそうに部屋を飛び出してるのを見ると、悩んだりしてたけど結局糸出して飛び回るのが好きなだけなんでしょと思えて、いい。その好きなだけなんでしょと思える飛び回りっぷりを最後にもっと長く見せてほしかった。
長々と書いてきたけど、スパイダーマンを気に入った一番の理由は、感情移入できるからだと思う。普段はまったくさえない、何事もうまくいかない男が突然ヒーローになる、さえないのは仮の姿だ、というお話しに思い切り感情移入できるくらい、普段みっともない生活をしているということ。同じように、あるいはもっと思い切り感情移入できるのが、カフカ先生。働きながらすごい小説を書いたというところに、働きながらというところに感情移入できる。たぶんそういった理由でカフカ先生を愛読する人はけっこういるんじゃないかと思う。スパイダーマンの劇場でカフカ先生の本を販売したらけっこう売れるんじゃないかと思う。感情移入って、ほんとになんなんだろう、なにやってるんだろう自分、と思うけど、気持ちいいのも事実。感情移入のメカニズム、ラカン先生から教えていただけるような気もするけど、それはまた時間のあるときに。時間のあるときに「精神分析の四基本概念」とか「言葉と物」とか「アンチ・オイディプス」とかじっくり読んでみたいけど仕事辞めなきゃ無理かもしれないとも思う。
それで感情移入しながら『カフカの書き方』を読んでいる。
「・・・・・・おやつなど、ぼくには害になるだけだ」
このカフカ先生の一言を読んで、感情移入をあきらめかけた。さらにあきらめさせられそうな文章があった。

二等書記官フランツ・カフカは有能な職員だった。現場の実態を正確にとらえ、問題点を協会の年報で報告した。有能だったからこそ、当時、もっとも工業化の進んでいた北ボヘミアの担当とされたのだろう。彼が日ごとに接していたのは、劇場の名士や、カフェの文学仲間や、サロンの教養あるスノッブたちではなかった。「織物王」や「自動車界の帝王」などと称していた新興の企業家たちである。

有能な職員だった、仕事もばっちりできたうえで小説も書いてるからかっこいいんだけど、自分はとても無能な職員なのでだめ。仕事はいまいちだったけど、夜はギンギンで小説書いてた、とかならもっと感情移入しやすかったはず。感情移入してもしなくてもいいから、とりあえず「カフカの書き方」から学びたい。

カフカの創作過程におなじみだが、まず無数の書きさしをする。まるでランナーがくり返しスタートの練習をするかのようだ。歩幅や姿勢、最初の一歩をたしかめる。それが定まったのち、矢のように走り出す。

ノートに、断片的な文章を書きためて、あとから編集してひとつの小説にするというやり方にすれば、短時間の作業の積み重ねで小説を書き上げることができるかもしれないので、何度でも書き直す、気に入らなかったら思い切り方向転換をするなどのやり方をまねたい。断片を集めて編集というと映画の作り方にかなり似てくると思う。金井美恵子先生と青山真治先生との対談『小説と映画』を読んでいたら、「小説にロケハンはかかせない」とあった。

小説を書くときにものすごく重要な主題のひとつだから当然なんですけれど、描写ということと関連して、最初にしっかりイメージしておいたりはっきりさせとかなくちゃいけないのは、空間なんです。空間の位置関係とか、なにがどこにあるかをはっきりさせないと、小説ってやっぱり一行も書けないところがあって。『噂の娘』に限らず、いままで書いてきたほとんどぜんぶの小説もそうです。映画用語みたいになっちゃいますが、なにが最初かって言うと、やっぱりロケハンですよね。それと、セットをつくる。あとほら、小説はひとりでやるわけだから、衣装係とか小道具とかメイクとか、録音とか、ぜんぶやってたいへんなんです(笑)。

(笑)とかじゃなく、小説と映画はほとんど同じ作り方と言う事もできると思う。文章と映像という大きな違いはあるけど、ほとんど同じような発想で作れるような気がする。映画作りの方法を小説においてめいっぱい試してみたあとで、これは小説にしかできないことだろうなんて思えることがでてきたなら素晴らしいし、試してもいないのに初めから小説と映画はまったくの別物だとしてふたつの関係を無視することは避けたいと思う。
スパイダーマンだけで長くなってしまったのでもうこれ以上書けないけど、このまえの日曜には「Lovely Rita」*1を観て、これもすごく気に入って、どこが気に入ったのかまだわからないままになっている。あの突然ズームするカメラのくり返しがすごく面白かったんだけど、あれはなんなの?ああいう突然ズームって、なんか恥ずかしいものかと思ってたけど、すごくよかった。でも、boidの監督インタビューを読んでみても突然ズームのことは話題になってなかったようなので、おかしいと思う。あの突然ズームについて語ることはないのか、もっとほかに語るべきことがあるということなのか。それでも、まったく触れないでいるのも気持ち悪くはないか、あの突然ズームについて。
あと、『あらゆる場所に花束が・・・・・・』『待望の短篇集は忘却の彼方に』を読んですごくおもしろいとおもったし、今日『亀虫』のDVDが届いてさっそく観たらすごくおもしろいとおもったんだけど、おもしろいと思ってすぐにそのおもしろさを頭の中で整理できないから、また時間をみつけて、こうして長々と書いてみるしかない。長々と書いてみてもわからないままのことの方が多い。長々と書くような時間があるならその時間でもっと本を読んだり映画をみたり、それよりも資格試験の勉強をすべきかも。
水曜日のスーパーカブ研修の時に同期と少し話して、同期が「トウミツトウミツ」って言うから「糖蜜」を思い浮かべてたんだけど、「UFJ」って単語も出てきて、ようやく「東京三菱」だとわかった。わかったんだけど、自分はだめだと思った。

*1:この映画に、カヒミ・カリィ辛酸なめ子五月女ケイ子がコメントをよせていた。さまざまな女性アーティストたちから支持された秀作!だそうです