観光と事件

いま私の太ももの上には「鎌倉を歩く」という旅行ガイドブックがのっている。ページをめくると、「高徳院鎌倉大仏」の写真が載っていて、私はそれを見に行きたいと思うし、江ノ電にも乗りたいと思う。夏の間に休みがもらえたら、出かけるかもしれない。それは観光と呼ばれる行為だろう。
では、観光とはなにか。ガイドブックに紹介されている素晴らしい景色を、自分の眼でみたいという欲求から電車に、マイカーに、あるいは飛行機に、船に乗って出かけること、それが観光ではないのか。
おそらくそれが観光だ。しかし、「素晴らしい景色を、自分の眼でみたい」というのは本当か。本当に「自分の眼で景色をみたい」と思っているのか。

例えば、鎌倉の大仏がみたい。京都で五重塔をみたい。鳥取砂丘をみたいし、北海道で羊をみたい。ニューヨークで自由の女神をみたいし、エジプトでピラミッドをみたい。特に、ピラミッドと、できればスフィンクスをみたい。でも飛行機に長時間乗るのは疲れるし、そんな暇、あるわけねぇだろ!そんなあなたにオススメしたいのがこの映画、『永遠の語らい』ですっ!
ポルトマルセイユポンペイの旧跡、アテネ、エジプトのピラミッド、イスタンブール・・・。母と娘の地中海を巡る船旅は、遥かなる時空の旅だった。〉映画館の座席に座っているだけで、様々な素晴らしい景色を目にすることができるってワケ。忙しくって、優雅に船旅なんてトテモ・・・・なんてため息をついてるあなた、そんなあなたにこの映画は観光気分をあたえてくれます。母と娘がアンニュイな顔つきで、誰もいない遺跡や、ピラミッドなどを見つめて佇む、なーんて気取っちゃってるものじゃなく、二人は行く先々で観光客と一緒になり、その観光客たちに向かって喋っているガイドさんと仲良くなったりします。それに、移動するたびに、船の舳先が波を切るカットが律儀に挿入されるので、自分がどこにいるのかわからなくなることもないし、その律儀さそのものがチャーミングで素晴らしいのです。

船で移動しながら、名所を巡る旅、それはまさにガイドブックや世界史の教科書で目にしたことのある風景であり、そのような風景を撮影している『永遠の語らい』は観光の映画である。観光の映画である『永遠の語らい』を通じて、観光とはなにかともういちど問うことにする。そのために、名所をどのように撮影しているかという点に注目する。この映画の中で、母と娘が訪れるのは、すべて「ガイドブックの写真になっていそうな風景」である。しかし、『永遠の語らい』のカメラは、ガイドブックの写真を撮ったカメラよりも後ろに下がって撮影をする。つまり、ガイドブックの写真には写らなかったであろう風景もフレームの中に収められていると考えられるわけだ。その「ガイドブックの写真には写らなかったであろう風景」、言い換えるなら「写真からははみ出していた風景」、「写真からは追い出されていた風景」を見るということは、実際にひとが旅行をして、訪れた名所を見るということと重なるのではないか。たとえば、スフィンクスのアップから始まるシーンで、カメラが引くと、向かって右手には道路が走っており、手前には母と娘が座っている椅子とテーブルがある。スフィンクスのアップが「ガイドブックの写真」だとするなら、カメラが引いたあとの風景は、観光にきた人がみるはずの風景ということになる。
みるはずの風景、という表現を用いたのは、もちろん、ほんとうにみているのかという疑問があるからだ。観光するひとは何をみるのか。個人的には、ガイドブックの写真で見た風景を生でみて興奮する、という経験を思い出すことができる。この経験から、私はガイドブックの写真をみていたから興奮したのではないか、という点が重要に思われてくる。言い換えるなら、ガイドブックの写真でみていない風景だったなら、そこまで興奮することはなかったかもしれない、ということになる。そこから推測されるのは、私は観光の最中に、目の前の風景に内在する美しさを見出して感動するのではなく、あくまでもガイドブックの写真を通じて興奮しているという事態である。
こうした事態を嘆いたり、悲しんだりするのは後回しにして、いまはより豊かな観光を『永遠の語らい』を通じて目指すことにしたい。映画の中に登場する名所には、必ず観光客たちがぞろぞろと歩いている。観光客は、観光地を歩く。「そこが観光地である」ということは、「決して到達することできない特別な場所ではない」と考えられるのではないか。「特別な場所」、「ここではない、どこか」ではなく、「いま、ここ」と地続きの場所としての観光地。ガイドブックに切り取られた空間ではなく、それは私が生活しているこの場所と繋がっているということ。そして見方を少し変えるなら、名所から特別な意味を剥ぎ取るという行為だけでなく、あらゆる場所が(ガイドブックには載っていないような場所も)特別な、素晴らしい場所になりうるということを確認するための観光を思い描き、実践すること。『永遠の語らい』は、私をそのような「観光」へと誘ってくれるような気がした。場所、空間についてだけでなく、時の流れでさえも、娘の「中世ってなに?」という問いかけによって、現代と中世との断絶、過去の歴史が今と繋がっているという実感のなさを揺すぶられるように感じたし、床に刻まれた×印を親子の足が通り過ぎるところも同様の効果があったように思う。
しかし映画は観光だけでは終らない。最後に事件が起きてしまう。この終わり方が素晴らしいと思えるのは、観光を観光として体験させたように、事件を事件として観客に体験させているからだ。船のタラップ、船から外を眺める親子、波を切る舳先、そうしたものの反復、反復されるたびに、船に乗り込む人が変わり、親子の服装が変わり、舳先にぶつかる波の形が変わる。映画を観ている間、ずっとみつめてきたそれらの変化、その繰り返しが突然断たれてしまう。これまで続いてきたことが全て一瞬で断ち切られてしまうこと、それが事件だということ。闇夜に、船へと近づく怪しい人影、何も知らない乗客、怪しい人影が船の中へと忍び込む、そしてカチカチと時限爆弾が時を刻み始める、まだ何も知らずに優雅なお喋りを続ける乗客、といった描き方をしたなら、テロという事件が映画をスリリングに盛り上げるための味付けで終ってしまう。そのように準備されたものが、テロとは、事件とは言えない。伏線もなく、突然起こり、これまで続いてきた物事を容赦なく終らせる、それが事件であり、その瞬間、映画は動きを止め、静止するしかない、この映画はそのような正しすぎるほど正しい終わり方をしていた。冒頭で、船に引っ張られて海に落ちそうになっていた犬だけがそうした終わりを予感させたと言ったところで、それは後から思い出すくらいのものだ。それにしてもあの犬の危なっかしさと力強さとが交じり合った仕草は本当にみていて興奮した。ガイドブックに載っていた犬、というわけでもないのに。