天動説と地動説

今朝めざましテレビで、最近の小学生はかなりの割合で天動説を信じているらしいというニュースを見てなんだそのニュースと思ったんだけど、地動説を理解したり信じたりするのは真実を追究したいという熱意などからではなくて、えー!太陽とか月とか星とかが動いてるように見えてたけど実は自分がいるところがまわってるの?なにそれ超うけるーという気持ちからじゃないのか。それでいくと、「実は映画など観てはいない説」や、「ヴァンダの部屋いかにも短すぎる説」なども同様に超うけることができ、その調子で物事に対する見方を少し変えるだけで超うけることが可能になり、その分生活の楽しさが増すので、小学生の頃から地動説を信じてみたりするトレーニングをしておくといいですよということだと思える。
ただ、二十歳を過ぎて思うのは、いまから天動説を信じなおしてみるのはどうかということで、普段の生活から地球が回っていることを実感することはないし、そもそも地球が丸いということだって意識することなく、自宅から職場までの道は平らだなと思いながら自転車をこいでいるので、果てまで行ったら海が滝みたいに落ちていくとしてもまあそうかもなと思えないこともない。実際、一度飛行機に乗った時も、窓からずっと大陸を眺めていたのに途中で乗務員の人の手で強制的に窓を閉められたし、その閉められていた間に海がだーっとこぼれ落ちている景色を見逃していたかもしれない。
ここでまとめると、人から聞いたことをそのまま鵜呑みにするのではなく、これまで聞いてきたことを一度忘れた状態で身の回りの物をみてみたらおもしろいような気がして、そういう状態で小説を書くとどうなるかというと第十九回早稲田文学新人賞「中国の拷問」みたいになるんじゃないかという話につなげることにする。
でも「中国の拷問」が読みづらいのは、物に対する見方がずれているからというよりも、情報を出す順番や量を操作することによるもので、その操作による効果はジジェク先生の言うところの貴婦人のようなもの、つまりわからないから読みたくなるというものだと感じた。それに加えて、「調節ねじ」の書き方などが妙にひっかかることが魅力のよう。

・・・泥の跳ねのあちこちについた自転車のサドルを叩きながら、エツロウはポケットからちびた鉛筆のような黒い棒をとりだした。角ばった細い棒の先端はねじ切られたようにささくれだっている。エツロウは棒をサドルの下に差し入れた。サドルを支える円筒形の支柱は鞘におさまるようにわずかに太い筒に嵌めこまれていて、サドルの高さを調節したあとで筒についている棒状の小さな調節ねじをまわすと支柱が固定されるしくみになっている。エツロウは指先でつまんだ黒い棒状の調節ねじでサドルの支柱を叩く。

これ、最初から調節ねじと書かないのはなぜか、調節ねじといきなり書かずに描写を重ねるのはなぜかと考えたら、この描写を重ねることによって、調節ねじがなにかを象徴したりすることなく、実際の物として手の中におさまる感触が出てくるからじゃないかという自分なりの答えがでた。描写は、ただ映像を見せる変わりに文字で読ませて頭に映像を浮かべさせるためにするのではなく、量を積み重ねることで物語の流れを淀ませ、流れに乗ってイメージとしてその物語の中での役割として「調節ねじ的なもの」になってしまうことを食い止めて物そのものに目を向けさせるためにするものだということ。それを注意したいので、メモに「焦って話を進めずに描写をわりと細かくしていくと、高級感が出る」と一言書いて壁に貼っておこうかと思う。
それより、「中国の拷問」に出てくる登場人物って全然関係が把握できなくて、エツロウだけカタカナだしなんだよと思ってたけど、これってトヨエツなの?トヨエツはエツシだっけ?渡部アツロウ先生と豊川エツシ先生でエツロウなの?無理やりだけど。
選考会で横光利一先生の「機械」の話が出てたからそれも読んだんだけど、「機械」の中に「軽部」って名前が出てきて、もう「軽部」って言われたら蝶ネクタイしたデブしか思い浮かばず、なんかそういう効果を狙ったエツロウだったらやだな。
「機械」がおもしろかったのはやたら取っ組み合いの喧嘩ばかりしてて、喧嘩の最中にもいろいろ思ってるところで、それってドラえもんの喧嘩のシーンで煙がもくもくしてるところだけをスローモーションで撮影したような間抜けさがあるからかもしれない。
でも最近超うけてる小説は、金井美恵子先生の「夢の時間」、これすごくおもしろい・・・・・・真似したいところばかりで付箋の数が増えっぱなし。