小説のおもしろいところ(もっと小説をおもしろがるために)

先日、バンクビジネスという雑誌(「融資説明こんなときどうする大事典」という特集)を読んでいて、そこにはいろいろなケースを想定して、見本の答え方が書かれているんだけど、そのなかでも答えづらそうな「融資謝絶時の説明」(パート4「融資謝絶時の説明はこうする」)のページに、「かつては、財務状況など定量面に問題がある企業に対しても、『総合的に判断して今回のご融資は見合わせていただきます』といった融資謝絶が多く行われていました。しかしこれでは、申込人にとって断られた理由があいまいで釈然としませんし、どうすれば融資を受けられるのか改善のポイントが見えません」ということが書かれていて、なるほどと思った。同様に、「この小説はおもしろいですよ」という感想だけでは小説のどこがおもしろいのかわからないし、わからなければおもしろい小説を書くこともできないはずなので、自分がなぜこの小説のここでおもしろいと思ったのかということをこれからもっと考えてみたい。
ほんとうはバンクビジネスという雑誌を読む前から小説のおもしろさについて具体的に考えてみたいと思っていて、最初にわざわざバンクビジネスの話を持ち出したのは、ぼくは信用金庫に勤めていますよということをアピールするためで、誰にむけてアピールしているのかというとどうもそれがはっきりしない。ただ、ぼくが信用金庫の話を持ち出すときに頭の片隅にあるのはおそらく、小説と信用金庫は決して交わることのない、まったく別々のものだという意識で、それを踏まえて、信用金庫で働くひとが小説を書こうとしていたらおもしろいのではないかと判断して、アピールしているような気もする。もし仮にぼくが国語の教師、あるいはフリーライターとして働いていたとしたら、国語の教師、あるいはフリーライターですということをアピールしないと思う。信用金庫の職員が小説を書く→おもしろい、国語教師・フリーライターが小説を書く→おもしろくない、というおもしろがりかたをまずなんとなく理解していただくとして、最近読んだおもしろい小説の話にはいっていく。
最近「坊っちゃん」を読み、とてもおもしろがることができた。
登場する人の描き方がとてもおもしろく、まず「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」と宣言しておいて、無鉄砲なエピソードをいくつか並べて坊っちゃんのキャラクターを形づくっていくわけだけど、エピソードを重ねるにしたがって、「それは無鉄砲とか無鉄砲じゃないとかいう問題なの・・・・・・?」というような話がまざってきて、それでも「親譲りの無鉄砲だから・・・・」という設定で乗り切っていくところがおもしろかった。

庭を東へ二十歩に行き尽くすと、南上がりに聊かばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋と云う質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎という一三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。その時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかかって来た。向うは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。

このあたりが最初に笑った部分で、どこがおもしろいかというと「これは命より大事な栗だ」「勘太郎は無論弱虫である」「弱虫だが力は強い」とくに「無論弱虫」→「弱虫だが力は強い」の流れが無鉄砲でいいと思う。つまり無鉄砲な坊っちゃんの語りなので文章も無鉄砲になるということなんだけど、その無鉄砲さは、坊っちゃんが文章を書かない(清に長い手紙を書こうとして寝てしまうような)ひとであることと深く関わっているように思える。坊っちゃんが国語の教師ではなく数学の教師なのもそういった理由からのはず。「書くことについて書く」たぐいの小説が持つ、ねちねちした感じがここにはない。ねちねちした感じの一言ですませるのはちょっとどうかと思うけど。ねちねちしてるかしてないかは置いておいて、書くことについて書く、とりあえず主人公がなにか書こうとしているという筋立ての小説を読むと、そりゃ小説は書かれてるに決まってるでしょどうでもいいよそんなこと、それよりもっとおもしろい話してよと思うわけです。
で、もっとおもしろい話というのは、「人間が描けている/描けていない」「心理描写がリアル/リアルではない」という問題ではなくて、話の筋を追うおもしろさと一文一文を読んでいるその瞬間がおもしろくてしかたない状態とがあわさったすごくおもしろい小説のことで、「坊っちゃん」がおもしろく、すがすがしいのはたとえば坊っちゃんがまわりの人たちにつけるあだ名が「赤シャツ」「野だいこ」(途中から「野だ」と略されているところがとてもいいと思う)「狸」「うらなり」だというところからも、心理描写とかどうでもいいことがよくわかる。(一通りあだ名をつけたあと、清への手紙の部分を使ってあだ名をおさらいしてみせる機能性も、その機能性自体がおもしろい。)人物がみな坊っちゃんにつけられた名で登場すること、坊っちゃんがつける名はすべて「みたまま」であることから、人それぞれの複雑な心境などなく、坊っちゃんによってきっちりと単純に、みたままに整理された姿で描かれるところがおもしろいし、なによりも夏目漱石先生が「勧善懲悪」ということを訴えたいのではなく、特に言いたいことはなさそうところ、言いたいことはないけど小説は書けてしまうしそれで十分おもしろいんじゃないのかということが伝わってきて、特に言いたいことのないぼくでもそれは気にする必要はないと思えてきて、勇気がわいてくる。明治の頃にこんなさっぱりしたおもしろい小説が書かれたのに、平成のいま「人間が描けている/描けていない」「心理描写がリアル/リアルでない」あるいはそれに類する価値基準で小説を判断するひとがいるとしたらとても悲しくなるし、そういうひとの方がもしも多いのだとしたらぼくはいったいなんのために小説を書こうとしているのかわからなくなる。

「あの赤シャツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシャツは只のシャツじゃないと思ってた。それから?」

やっぱりこうしてみてみると、人間とか心理描写とかの話よりもまず、「赤シャツ」とか「野だ」とかいう文字がページの上に並んでる様がたのしげな感じがする・・・・・・しかも「赤シャツ」とか「野だ」という言葉は「ジョンレノン」とか「火星人」とかに比べて、言葉そのものにうわっついた感じ、笑わせようとする感じがないところに好感が持てる。それぞれ笑わせようとはしていない個々のものが集まった結果、なんとなく笑える状態になるというのが理想的だとぼくはいま思っているけど、しばらくしたら気が変わったりするのだろうか。

ほんとうはもっと具体的に、最近読んだ面白い本について考えていきたかったんだけどそんなに時間もないのでまた今度にしようと思う。
書かないひとの書いた本が読みたいという(おもしろがりたい)気持ちについては、「肉屋さんが書いた肉の本」、話の筋・ストーリーよりも文章を読むこと自体がおもしろくてしかたない気持ちについては最近読んだ金井美恵子先生の「夢の時間」や「くずれる水」、「あかるい部屋のなかで」など。その他ピンチョン先生の「競売ナンバー49の叫び」のおもしろさや深沢七郎先生の「言わなければよかったのに日記」のおもしろさなどについても、どこがどうおもしろいのかまた時間のあるときに考えたい。考えて、自分の小説に活かしたい。まだまだ原稿用紙で言うと15枚程度。