静男先生ありがとう、いつもおもしろい小説を書いてくれて・・・・・・

藤枝静男先生の『田紳有楽・空気頭』、これはおもしろいところが多すぎて、結局付箋をはれなかった。この小説のおもしろいところのうちのひとつをおおざっぱに言うと、読んでいるうちに「この小説はこういう小説だろう」という予想やイメージがどんどんずれていくところだと思う。

七月初めの蒸し暑い午後、昼寝を終えて外に出た。

冒頭の一文を読み、そしてその後に出てくる単語「台風」「庭木」「ユーカリの花」「枝」などを目にして、すぐに「自分の家の庭を舞台にした、私小説風の小説かな」というイメージが浮かんだ。もちろん、静男先生の小説を読むのは初めてではないので、なにか仕掛けてくるんじゃないかという期待はあるけれど、ここまでの部分では先に挙げたようなイメージをまず浮かべた。そのイメージが、一枚ページをめくってすぐに裏切られた。

ユーカリの硬い葉はかたわらの二坪たらずの浅い池にも沢山散りこんでいた。二、三分眺めて再び二階にあがると、いつのまにか書斎のまんなかに白シャツを着た小男が汗を拭きながらキチンと坐って待っていた。
「僕は昔で云えば与力の岡っ引きの、もひとつ末端の下っ引きと称する階級に属するスパイで滓見と申すものです。これから僕の処世術を、僕の副業とする骨董品の買い出しになぞらえて教えますから、どうか参考にして下さい」と云ったので感謝した。

ベッドに寝転びながら文庫本を眺めていて、この部分を読んだときには思わず起き上がった。これはすごくおもしろい。庭にあるユーカリについて描写したあと、そのユーカリについての憶測を挟んでワンクッション置いてからこの部分でがらっと小説の足場のようなところを変えてしまうからすごい・・・小説を書く/読むときに、まずそこに出てくる単語から、ある一定のイメージを勝手に作って書き進めていく/読み進めていくことになる―たとえば、金井美恵子先生の『夢の時間』を読むとき、冒頭の部分―

アイは眠りたかったし、空腹でもあった。夜明けから、ほとんど何も食べていなかったのだ。K街道のガソリン・スタンドで若い男が満タンにオイルを入れている間、彼女は熱い珈琲を飲みながら、ガラス窓越しに空を眺めていた。まだ東の空は明けきらず、ようやく白みはじめた青灰色の薄暗がりがあたりを包み込んで、アイはガラス張りの喫茶室の中で震えていた。

「ガソリン・スタンド」や「熱い珈琲」、「ようやく白みはじめた青灰色の薄暗がり」といった単語を目にし、その後ロードムービーのような状況について知らされたとき、海外の小説を翻訳したような世界、舞台としてはヴェンダース先生の映画に出てきそうな光景をなんとなく浮かべながら読みすすめた。そして「田紳有楽」のときと同様に、そうして勝手に浮かべていたイメージから一気にずれる瞬間があった。

老人ホーム養花園前バス停が、町と文化村間を走っているバスの折り返し点だった。アイは小さな木造の箱型の待合所のベンチに腰掛け、秋の陽ざしを浴びながら、小さな欠伸をした。待合所の壁には、黄色いビニール傘が三本ばかり下がっていて、壁には一から十番までの数字の小さな楕円形のプラスチック板がはってあり、それが傘の置かれるべき場所を意味しているわけだった。その上の方にプラスチックの板がうちつけてある。ビニール製の傘は文化村の自治会が備えつけたもので、白いプラスチック板には、次のように書いてあった。《みんなのために、使った傘は元に戻しましょう!!みんなの傘です。文化村自治会》傘は十本あるべきはずなのだが、今は三本しかなく、残り七本はあるべき場所に戻されていないようだった。〈共同体自治会の善意的行為なんてものは〉とアイは考えた。〈いつだって、内部から崩壊するもんなんだから!バス停に傘を置くなんて提案ほど下らないものはありゃしない。みんなの傘だって?!ヘッ!見てごらんよ。現に、七本の傘が紛失してるじゃない。文化村だって?自治会だって?〉

ここにはいろんなおもしろさがあって、「老人ホーム養花園」という単語でヴェンダース先生の映画に出てきそうな光景がいっきに崩れる快感(おもしろさ)があるし、「小さな楕円形のプラスチック板」といったような細かさがおもしろく感じるし、ここでアイの考えている内容から、アイという登場人物の内面のようなものがよくわからなくなるところがおもしろいし、なによりも「追跡者」がうんぬんといった話の流れからずれて、残り七本の傘がどうなるかをしばらく見守ることになるその話の展開の仕方、つまり横道にそれていくことのおもしろさがこの小説にはあふれているように思った。
静男先生の場合も同様に、「スパイ」の一語でずれた話がその後もひたすらずれていくそのずれっぷりがとにかく楽しい。ずれっぷりに加えて、正気な登場人物がひとりも出てこないところもすごくいいと思う。「と云ったので感謝した」というのは、おかしなことが起きた時に受身になるのではなく、かといってつっこみを入れるわけでもなく、誰もつっこまないからどんどん狂っていく。庭からはじまって、チベットの山奥の話になったときは、とんでもないところまで連れてこられてしまったという気分になり、その距離が長ければ長いほど、小説を読んでおもしろかったと言えるような気がする。丼鉢が自分の経歴を語りだすあたり、その内容などが「競売ナンバー49の叫び」を読んでいておもしろいと思ったところ、史実などをどんどん入れてくるおもしろさと似ているようにも思った。
また、「田紳有楽」のおもしろさは、「私は池の底に住む一個の志野筒形グイ呑みである。」みたいに一文で一気に空気を変えるその切断面の鮮やかさと、丼鉢の話の中で流れるようにチベットの山奥まで行ってしまうそのグラデーションとの二つの技術をあわせて使っているところにあり、おもしろい小説を書くためには、飽きさせないようになんでもやってやろうという気構えが必要だ!と思わされるほど、「田紳有楽」はどんどん予想やイメージを裏切って最終的にはウルトラマンとかそういう感じになってしまうところがほんとうにすごい!ああすごい!これから一年に一度は必ず「田紳有楽」を読むことにしようと思った。
「空気頭」も同様なずれっぷりが楽しめる小説だと思うけど、「田紳有楽」よりも形式がはっきりしているように感じた(「田紳有楽」も何度も読めばはっきりしてくるかもしれないけど、かなり変則的で複雑な作りのような気がする)。この小説でおもしろいと思ったのは、気頭術の手順が詳しくかかれている部分で、ここで「パントカイン」とか「ペニシリン溶液」とか「眼球壁」とか「視神経繊維束」などといった単語が並べられているところでひとつひとつの意味をはっきりと理解しなければいけないのではなく、物理的な事柄を列挙していくことが必要だったはずで、そのおかげで気頭術、空気頭といったものが抽象的な、なんらかのテーマを色濃く映し出すものとなるのではなく、あくまでも具体的な、物理的な問題として描くことが可能になっている点から描写の意味について考えることができると思う。でもやっぱり「空気頭」の一番おもしろかったところもずれっぷりで、病気の妻とのことを私小説風に書いていると思ったら途中から精力剤をどうやって作ろうかって話になって、おっさんがご飯にふりかけ掛けて食べてると思ったら人糞の粉だったとかもうすごくおもしろかった!レオナルド・ダ・ヴィンチの「人類交合断面図」の話もおもしろかった!

私の注意をひいたのは、ここに描かれた交接男女の生殖器から発する神経繊維が、男と女で異なった走行を示しているという事実でした。つまり男性のそれは亀頭から太い神経が出て脊髄を経て大脳に達しておりますのに、女性のそれは子宮底から出て脊髄を経て乳首に止まっているのです。このことは、レオナルドが、女性の性慾は脳とは関係がないと解していたことを証明します。(・・・)
その精緻さに於いて、ある意味で当時の解剖学の第一人者ヴェザリウスにも勝ると評価されている天才レオナルドが、何故このような不可解な過誤・肉体的差別を両性に与えたのでしょうか。彼はこの図によって、男性の性感は大脳内に終るに拘らず、女性のそれはただ第一性徴たる膣子宮と第二性徴たる乳首の間を往復するばかりで脳髄とは無関係であると語っているのです。
私は、彼の自画像と称せられるあの素描を頭の隅に思い浮かべました。下唇を少しつき出し、口の両端を気難し気に結んでチラッとこちらを見ている、取りようによっては人を小馬鹿にしたようなあの老人の表情です。
彼はその手記のなかで「人体に於いて醜の最たるものは生殖器である」と云って居ります。これを書いたとき、彼の頭に浮かんでいたものは女性の性器ではなかったでしょうか。そして彼が人体に於いて、実際に子宮と脊髄、脊髄と乳首とを結ぶ神経を発見したとき、彼はあの皮肉な突き刺すような眼でそれを写し取り、それによって自分の女性解釈を表白したのではありますまいか。
彼が生涯童貞であったという伝説を私は信じません。あの異様なまでの好奇心と、不抜の実証精神に貫かれたレオナルドが、性交を実験しなかったはずは絶対にありません。私は、この一枚の解剖図の誤りが、彼の実感によって裏打ちされたものであることを断言いたします。私はまさに百万の味方を得たようなものでした。

さっきから小説を書き写していたら、ただ読むだけよりも勉強になるような気がしてきたので長くなった。まずいろいろ情報と言うか、豆知識みたいなものがたくさんあっておもしろい。あと、こういった書きかたで歴史上の人物についてあることないこと書いてみたい。とりあえず織田信長豊臣秀吉徳川家康あたりのことを小説に書いてみたくなってきた。あと、この部分、途中からだんだんエモーショナルになってくるところがおもしろい。すごくうまいと思う。
「空気頭」の真中が丁寧な語り口になるところはあんまり真似しようという気分にはならなかったけど、終わり方はすごく無難だと思った。どうしても困ったらこういう終わり方にしようかなと。