あけましておめでとうございます


年が明けてから職場内で配置転換があり、転勤していくKさんに代わってぼくが渉外としてはじめて外に出ることになりました。それで正月休みが終わり、仕事がはじまってすぐに三日間で引継ぎ(集金先をまわって名刺を配り挨拶をする)を済ませ、それからひとりで外に出ました。引継ぎ期間は営業車の助手席に座っているだけでよかったのですが、ひとりになるとスーパーカブに乗らなければならず、とても寒いです。寒いし、車体がものすごく震えるので心配になります。スーパーカブよりも前には普通のカブがあってスーパーカブよりももっと乗り心地の悪いものだったりしたのでしょうか、カブの歴史についていますぐに調べようという気持ちはありませんが。
外に出るようになってから疲れてすぐに寝てしまうのと、仕事関係のマニュアル本を読まなければいけないのとでなかなか小説を読んだり書いたりする余裕がなくて悲しい思いをしてきましたが、今日、このままではいかんと思い立ち、小説に使うための写真を撮ったり、図書館で資料を借りたりしようと、大学生になったばかりの頃にはいていたリーバイスに足を通し、大学生の中ごろにバーゲンで買った緑色のセーターに腕と頭を通し、大学生の終わりごろロンドンに行く直前に買ったニット帽をかぶり、下着類はすべてユニクロで、自転車にまたがり出かけてきました。上や下にあるのがその写真です。
図書館では、「織田信長・七つの謎」「図説織田信長・男の魅力」「マイケル・ジャクソン 今世紀最大のポップスターの悲劇と真実」を借りてきました。小説に役立てばいいのですが……
書いている途中の小説はまだ45枚程度のところで、けっしてうまく書けているわけでもなく、書かれている途中の小説がぼくを駆り立てたわけではなく、ただこのまま毎日仕事だけしていてもつまらない、小説を書くために仕事しているんだ、ワイの扶養家族は小説や!と無理やり思い込むことにしただけですが、それでもその思い込みによって生活がすこしでもたのしくなればいい、なんとかたのしくなってほしいと期待しています。

それで書いている途中の小説についてなんですが、早稲田文学の一月号を読んでいたら新人賞の選考会で、改行がほとんどない、文章びっちりの小説よりも余白があったほうが、という話が出ていて、てっきり早稲田文学に出すなら改行なしびっちりじゃなきゃだめなんだろうと思っていた自分はなんだったんだとばかばかしくなりました。早稲田文学よりも新潮に出そうかと考えていたので、なぜ改行なしびっちりで行こうと思ったのかもよくわからないし、でもたぶん金井美恵子先生にあこがれて改行なしびっちりをやってみたかったというのが本当かもしれないし、とにかくこれからは余白の時代なのか、うすうすそうなるんじゃないかと思ってたよとも考えて、それならおもしろい余白の作り方はどんなものかということを意識するようになりました(とりあえず今回の小説は、もうびっちりで行きますけど)。
昨年末にみた「ソドムの市」という映画が、「おもしろい余白」について考えるヒントになるような気がしていま一生懸命思い出そうとしています。あの映画は、単純に安っぽさをギャグにしていると言えばもちろんそうなんですが、それだけでは終わらないおもしろさがあるような気がします。それはたとえば、安っぽいセットや衣装で大掛かりな、中身の詰まったことをやろうとするいびつさ、不安定さであったり、「映画美学校」を警察署に見立てることであったり、そこにおもしろさがあるのではないかと。見立てることのおもしろさは、目の前にある映像、「映画美学校」と書かれたドアをみつめながら、自分の頭のなかでそれを警察署に置き換える運動によるものではないか、もしかしたらおもしろさというものは「運動量」で計れるのかもしれないと思えてきました。たとえばおもしろさのひとつに反復があると思うんですが、同じことを繰り返されたとき、観客の頭のなかで、いま目の前にある光景からさっきみた光景へと行き来する運動が起こっているはずだし、反復されるふたつの場面の間にある時間が長ければ長いほど運動する距離が長くなるし、短時間で何度も反復されれば、それは反復横とびてきな運動量の増加につながり、したがって運動量が多くなるほどおもしろさが増すと考えることはできないかと思ったんですけど、べつに思わなくてもよかったような気もします。
余白のことに話を戻すと、「ソドムの市」はいろいろ「びっちり」詰め込んだその内容に対して、「安っぽいセットや衣装」「見立てること」などの余白が用意されていて、そういった意味で今っぽい余白のある作品になっているのではないか。

小説だと、芥川賞を受賞された阿部和重先生の「シンセミア」がそれに近いおもしろさを持っているような気がします(これもだいぶ前に読んだので一生懸命思い出します)。「シンセミア」のおもしろさは、阿部先生が大作家になり大作「シンセミア」を完成させたのではなく、大作家にならずに大作「シンセミア」を完成させたところにあると思うからです。「シンセミア」のおもしろさは、大掛かりな物語を「大掛かりな物語用」ではなさそうな文章、安っぽかったり、統一感がなかったりする文章をつぎはぎして作り上げているそのいびつさ、不安定さにある(その不安定さがとてもスリリングでたのしかった)とぼくは考えていて、だから「シンセミア」に喜びを見出せない人がいるとしたらそれは単にいびつなもの、不安定なものをおもしろがる傾向がない人なのだと思います。そしてぼくはなによりもまず自分がおもしろいと思える小説を書きたいので、なるべくこういったいびつさ、不安定さを取り入れるよう努力して、びっちりしつつ余白もあるものを目指すことにします。
ここ最近で一番興奮した小説は仙田学先生の「きみの中指の深爪の」で、あんなにおもしろい小説が書けたら本当に最高。「きみの中指の深爪の」を読んでいたときに、映画と小説との間にある違いがひとつ見つかったような気がします。それは場面転換についてで、映画において場面が切り替わるのと、小説において場面が切り替わるのとではまったくそのおもしろさが異なるということです。それは小説の場合は、文章において場面が切り替わるのと読者が頭のなかで場面を切り替えるのと、そこに時間のずれが生まれ、そのずれ、距離が運動につながり、おもしろさとなる、当たり前といえば当たり前のことなんですが、これを強く意識するといいかなと思いました。このおもしろさを生むためには、あまり改行せずにびっちり書いたほうが絶対いいはずで、「きみの中指の深爪の」はだから改行せずびっちりでもすごくいいんです。ネズミ捕りの箱の描写とかすごくおもしろくて、それはクイズのおもしろさに似てるのかもしれませんが。
これで、ここ最近考えていた小説のおもしろさについては全部書いたので終わります。