四万十川料理学園卒

これまで「おもしろさ」という言葉の意味をはっきりと定義せず、わざと曖昧なままとりあえずおもしろいと書き、それからそのおもしろさが具体的にはどうおもしろいのかを考えてみるという作業をおこなってきたわけですが、その曖昧なままとりあえずおもしろいと書いているときに自分が何をもとにおもしろいと判断しているのかと考えたら、小学生の頃にみた「ごっつええ感じ」と「伝染るんです」がすべての基準になっているような気がしてきて、うすうすそうじゃないかとは思っていたけど、自分のあまりの普通さにどんな感想を抱けばいいのかよくわからないし、と言った時点で自分の普通さをあまりよろこばしいことだとは思っていないことはわかり、それを言い換えると自分が変わり者だったらいいのに!ということになり、その変わり者願望みたいなものがもう普通すぎることは、例えば職場には自分を含めて五人の渉外係がいるけれど、そのうちの二人は自身のことを一見やる気がなく、さぼったりだらだらしたりのん気にやっているように見えて、実は実績をしっかり上げてくる異端児だと思っているようで、五人中二人が自分を異端児だと思いたがっているということからも明らかで、異端児だと思いたい気持ちがそれほど特殊なものではない証拠だと言える。
整理すると、

  • ごっつええ感じ」と「伝染るんです」がおもしろい、ということがすべての基準になってしまっている(森島の)。
  • ごっつええ感じ」も「伝染るんです」も、多くのひとに愛されているにもかかわらず、その視聴者や読者が「本当のおもしろさは私にしかわからない」という気持ちを抱きやすいのではないか(森島も)。
  • 特に「ごっつええ感じ」の場合、ビデオテープを入手するのが困難でなかなかみれない、というものではなく、日曜の八時にテレビをつければ簡単にみることができたため、多くのひとがそれを目にした可能性がある(森島もみていた)。
  • もし、それを目にした可能性のある多くのひとがみな「本当のおもしろさは私にしかわからない」と、一度でも一瞬でも思ったことがあるのなら、それはどういう状況なのか(森島も含めて)。

ここまでは前置きで、本題は古井由吉先生の「杳子」を読んでおもしろいと思ったことについてです。最近なかなか小説を読む時間がなくて、読み始めたとしても集中力が続かなくて途中までになってしまったりして、たとえば「陥没地帯」なんかも、砂丘に生えているという植物が具体的には「ねぎ」だったらおもしろいかもとか思いながら挫折しました。でも「杳子」の場合はひさしぶりに集中力が続いて、おもしろく読めました。
すごくおおざっぱに言うと、「杳子=小説=病気」という感じがして、杳子という人物を通じて「小説はこうあるべきではないか」という古井先生の主張を読んでいるみたいだ、ああ小説はやっぱりこうでなくっちゃだめですよね先生と思いながら読みました。
片仮名で三文字の喫茶店の名前がわからなくなった、響きが違ってわからなくなった、とか、杳子が自分の家にある電話の位置をすごく細かく説明しようとするところとか、小説のおもしろさについてのヒントになりそうだという気がすごくして、「小説はこうあるべきでは」という主張であると同時に「こうあるべき小説」に近づこうとしている点が一番興奮した要素だったと思います。
そのむつかしさは、例えば片仮名三文字を実際に書いてしまって(仮に「ポプラ」とか)、その書いてしまった三文字を読者に「わからなくさせる」ことのむつかしさを考えるといかに大変なことなのかがわかります。
ただここで前置きの話に戻るんですが、ぼくが「杳子」をおもしろいと思った本当の理由は「キャシー塚本みたい」だったからじゃないのか…
「キャシー塚本」みたいに、コントの中には「病気」のひとが必ずといっていいほど登場していて、それがおもしろいと思うようになっているので、「病気」が出てこないとなんだか物足りない気持ちになることになっていて、「病気」が出てこないコント自体を想像することが困難な状況をどう捉えるか、これはもう「ごっつええ感じ」をみてきてしまったために超えることのできない枠なのか、それともコントというものは本質的に病気を孕むものなのか、本質的にって言ったってどうもこうもないとは思うけど。
そしてさっきの「変わり者」を「病気」に置き換えると、みんな病気になりたがっている可能性が高いように思えるし、それをもう一度「変わり者」に置き換えると、逆説的に、変わり者になりたがらない者が一番変わり者、病気になりたがらない者が一番病気、つまり健康こそ病気ということになって、健康なコントは果たして可能かというのが今ぼくが気になっていることなんです。
ごっつええ感じ」とはまったく異なるかたちのコントをみてみたいとずっと思い続けているけど、本当に異なるかたちのコントをみたらたぶんおもしろいと思わないでしょうね。そのときは、まずおもしろがり方から自分で作り出していかないといけないし、作り手の側になるとしたら、そのおもしろがり方を受け手側に教育していかないといけないので苦労が多そう。それには順序があって、すでに多くのひとに認められているおもしろさを少しずつずらしていく必要があるということは、なんとなく、うすうす自分でもわかってるんじゃないかとは思うんですよ、うすうすは。