二番目の自転車少年

ちょっと前に「真夜中の弥次さん喜多さん」をみました。それで、いま「真夜中の弥次さん喜多さん」についてなにか気のきいたおもしろいことを書けば、もっとこの「森島の学習」が注目されるようになって、その後サクセスストーリーみたいなものがあって、最終的にはなにかしら金銭的なものが発生するといいなという期待をこめて映画の感想を書きます。

いろいろ興奮したところがあるんですが、一番感動したのは全体的なことで、初めて映画を監督することになった宮藤官九朗先生が、映画的なおもしろさとはなにか、といったようなことを考えたというよりも、でっかい画面で豪華なテレビ番組(コント)をやるんだという強い意志を持って制作に臨んだのではないか(例えば、○○の宿、という形でテレビドラマのように区切りを付けているところなどから)と感じられた点です。そこがいさぎよくてかっこいいと思いました。テレビよりも映画のほうが上位にある高級なものだという発想は、どこから来てやがんだてやんでぇ、ということだと思ったんです。だからこの時点で、映画だけをみていろいろ思うというより、宮藤官九朗先生の姿勢がどうかという話になってしまい、映画と監督を切り離せなくなってしまっているわけですが、ぼくはこの映画については、監督というひとりの人間のテレビやお笑いに対する姿勢がとても重要な部分を占めているように思えて、また個人的には、映画に出てくる人物に感情移入するというよりも、監督に感情移入しながらみていたように思うし、そういうみかたをしたからこそ興奮したのではないでしょうか。
そこで、「真夜中の弥次さん喜多さん」の中の重要な要素だと思える監督の姿勢、さらに言えば監督のお笑いに対する姿勢についてみていくと、まず前半部分にみられた寺島進先生演じる警官と弥次さん喜多さんとのやり取りが、派手な衣装を身にまとっていながら素に近い会話をするおかしみ、という点でダウンタウン浜田先生に怒られるダウンタウン松本先生(ゴレンジャイとか)を思い起こさせるもので、その後に登場する「のびる金玉」や板尾先生などが「ダウンタウン的なお笑い」に属するもののように思いました。
そこからスタートして、最終的に「おなら」のようなもの、それを強引に「ドリフ的なお笑い」だと言うとすると、三途の川で研ナオコ先生が登場した理由もなんとなくわかるような気がします。ここでなぜ「ダウンタウン的なお笑い」→「ドリフ的なお笑い」という流れにこだわったかというと、ひとつには自分が高校生の頃、いわゆるシュールな笑いみたいなものは最終的には「ダッフンダ」に行き着くのではないかと考えていたため、もうひとつには、この映画が監督のなかにある笑いの歴史をロードムービーの形に当てはめてさかのぼるというものだったのではないかと推測しているためです。
そういった流れ全体を俯瞰してみたときに気づくのは、かなりギャグを詰め込んでいるけれど、ひとつひとつのギャグを取り出してじっくり吟味するとそれほどおもしろくなくなってしまうこと、逆に言えば、それほどおもしろくないギャグでもスピーディーに詰め込んでいけばおもしろくなるということ、この手法は「明石屋さんま的なお笑い」なのかなという気がします。ただ、それを指摘したところでどうにもならないし、それよりもこのひとつひとつのギャグがあまりおもしろくないところ、言い換えると、時間を置くと腐ってしまいそうなギャグを積み重ねている点、そして映画というよりもテレビ的な、こちらも時間がたつと腐ってしまいそうな点から、宮藤官九朗先生が永遠に腐らない不朽の名作を作ろう、とは思ってはおらず、むしろ積極的に腐ってしまいそうなものの中にのめり込んで行こうとする姿勢が垣間みられるように思い、そこからはうっすらと腐臭が漂うのかというとそうではなく、いつか腐るかもしれないがその分だけいまは新鮮、という印象があり、むしろいつか腐ってしまうことを恐れるあまり、腐ることのない表現をしようと努めた結果、最初から腐ってしまっているということのほうがよくあるような気がするので、そういった意味でも宮藤官九朗先生の姿勢は、いま映画を撮ることのむつかしさを思うとなかなかかっこよくて賢いのではないかと思えます。
そして、今回の映画だけでなく宮藤官九朗先生の作品全体に言えることだと思いますが、先生の姿勢にはどこか、二番目の自転車少年を思わせるところがあって好感が持てるというか、共感します。むかし「タイム3」というテレビ番組があり、その中で夏休みに自転車で日本縦断に挑戦する少年が取り上げられており、その道中での人との出会いや、つらいときも懸命に努力して乗り切る姿などが感動を呼んだわけですが、その後、その少年の姿をみて「それなら俺もやる!」といって同じように自転車で日本縦断を試みた少年がいたのですが、二番目の彼はわがままで、弱音ばかり吐いていて、なによりも二番煎じという恥ずかしさもあり、どうしようもない印象を受けました。ただその彼がジュースばっかり飲みながら、そのせいで横っ腹を痛めながら日本を縦断していく姿のほうが実は重要だったんじゃないかといまになって思えてきています。そこに自分の姿を重ねるのもなんだかまぬけですが、でもいま映画や小説に関わろうとした場合、どうしても二番目の自転車少年のような立場に立たざるを得ないだろうし、そのような立場ならではのおもしろさもあるんじゃないかと苦し紛れに考えずにはいられません。