迷路ですよ

七月の半ばになり、信用金庫に入庫してから三ヶ月が経った。この三ヶ月間で事務副長の面白さが分かってきた。
事務副長は、「おごるな・いばるな・あせるな・くじけるな・まけるな」と自分で書いた標語を机の上のビニールシートに挟んでいて、初めてそれを見た時は、単に〈自分に厳しい人なのか〉と思った。でも少し考えれば、「おごるな」と「いばるな」、「くじけるな」と「まけるな」は、ほとんど同じ意味の繰り返しだし、なにより全てひらがなで書いてあるところが奇妙といえば奇妙で、初めて標語を目にした三ヶ月後に事務副長が奇妙というか面白い人物だということに気づくことになったのも当然のことかもしれない。
その彼の面白さを、過去にさかのぼってまで再確認したいと思わせるような出来事が、六月の末に起きた。月末というのは、信用金庫にとって忙しい時期で、普段は暇な支店でもそれなりにやらなければいけないことが増える。運悪く、その時は相続の手続きも重なっていて、その忙しさが事務副長の中でピークに達した(と思われる)瞬間、彼は「ああ!むかついてきた!」と、割りと大きな、はっきりとした声で自分の状態を宣言し、宣言された側としては、失礼だけど笑うしかなかった。慌ててもう一人の副長が「落ち着いて!」と声をかけていたのも面白かった。
それを契機に、それまでに事務副長がどのように行動していたのかを振り返ると、まず支店長のことを「おっさん」と呼んでいたことが思い出された。私が応接室に呼ばれ、支店長から簿記試験に落ちたことなどについての説教を受けたあと、ドアを開けて出てきた時、「おっさんにしては話が短めやったな」などとニヤニヤしながら話し掛けたりして、その時は「おっさん」という単語に軽く違和感を覚えただけだったけど、後から考えたら、まず「おごるな」「いばるな」という標語が完全に無視されているという事実、もう「おごる」「いばる」どころか、どこまでも態度が大きいところが面白いし、自分のことは全く「おっさん」と意識していない点もすごい。事務副長は、腹が出ているのはみっともないからトレーニングしていると語っていたこともあり、そのトレーニングの甲斐あって体つきは「おっさん」らしくないかもしれないが、それも奇妙というか、気持ち悪いものだと思う。
ところで、支店の周りには虫が多く、乾燥したミミズがプレッツェルのようになっていたり、どんなに掃除しても翌朝には蜘蛛の巣が至るところにはり巡らされていたりする。箒で蜘蛛の巣をはらい、はらわれた糸が箒の先にまつわりつき、まつわりついた糸の粘着力で、掃こうとした落ち葉が箒にくっ付いてしまう。朝とめた自転車に、夕方蜘蛛の巣がはっているという、漢文を訳したかのような事態。*1そんな蜘蛛の巣の多さに対して「蜘蛛の巣ばっかりやな、スパイダーマンがおるんやないか」と呟いた事務副長のギャグは、蜘蛛の巣=スパイダーマンというシンプルさで私を打ちのめした。

*1:店の外だけでなく、応接室の入口付近から蟻の行列がぞろぞろと出てきたこともあったし、蛾が店内を舞っていたこともあった。