蓮實先生の『批評あるいは仮死の祭典』*1の中にロブ先生についての文章があり、それはとても興味深い。

彼が伝統的なと呼ぶ創造行為にあっては、「作品」は一つの見えない謎を隠したものとして機能し、したがって読者の勤めは、奥の、より深くに埋蔵された真理への歩みであって、その過程がいわゆる劇的なる効果を生むことになるのだが、「作品」それ自体が答えであるロブ=グリエ的世界にあっては、読者なり観客は、真理とは無縁の、嘘言と、詭弁と、捏造の世界に宙吊りにされてしまうのだ。眩暈は、迷路がいささかも人をまどわせてくれない点から来ており、アリアドネの糸のかわりに定規と物差と案内書を片手にたどる迷路のさきには、勿論ミノトールなどひかえてはいない。何というおどろき!

謎を隠すのではなく、ほらこれが迷路ですよ、と宣言することはとても魅力的だと思う。謎を隠して小説を書くというのは、コツさえつかめば簡単にも思えるし、隠す行為そのものがいやらしいし、カッコ悪いし、恥ずかしいので、蓮實先生の指摘するような「いささかも人をまどわせてくれない迷路」を目指したいし、その試みがうまくいったら面白いだろう。要するに、なんでももったいぶらずにはっきり書けばいいんじゃないのか?ということだと思う。

*1:菓子の祭典だったらぜひ行ってみたい。