MusicalBaton

あこがれの「後だしジャンケン連敗録」(id:throwSさん)からMusicalBatonがまわってきたっす。それで、きょうはズッーとカブに乗りながら何を書こうか考えていてねぇ…
これまでワスが音楽について書かなかったのは、とくに書くことがなかったからだーよ!
「思い入れのある五曲」なんて、スタジオボイスとかリラックスとかに載るちょっとした有名人みたいじゃんか。つまり最終的にはなにかしら金銭的なものが発生するといいなという期待をこめて書くっす。

●Total volume of music files on my computer:(今コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

120GB。120分なら二時間、そう、二時間ドラマだーよ。ところでみんなぁ!ヨーグルト食ってる〜?

●Song playing right now:(今聞いている曲)

後だしジャンケン連敗録」をパクるのに夢中で音楽なんて聴いてなかったからあわてて今音楽かけたーよ、東京No.1ソウルセットの「OUTSET」…ソウルセットの歌詞が素敵、なんてゆー人はちょっとどうかしてると思うっす。ソウルセットがおもしろいのは、(勘違いした)過剰なポエジーに過剰な演出を加えてるところに違いないんだよ(良く知んないケド)。それよりワスは高校に通ってた頃からほとんど渋谷系しか聴いてないよホンツに…下校途中、ほとんどシャッター降りてる商店街にあったアカツキレコードってとこで北島三郎とかのポスター横目にコーネリアスのイヤホンついたやつほじくり出したりしてねぇ…最近はさすがに飽きてきたけどさぁ。

●The last CD I bought(最後に買ったCD)

A Tribe Called QuestのThe Low End The Theory
これからヒップホップとかラップをいろいろ聴く予定だーよ。小説にも日本語ラップを取り入れて、「モブノリオを超えた森島武士」みたいな流れになって、受賞できると思うっす。ちなみにスタジオボイスに載ってるモブノリオ先生の連載、ワスはいつも立ち読みしてるんだけどねぇ…なんかスリリングで楽しめると思うっす、というかワスは楽しんでるんだーよ。

●Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me:(よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

○抱きしめてトゥナイト:田原俊彦
ブルージーンズメモリー近藤真彦
○Billie Jean:Michael Jackson
○Thriller:Michael Jackson
○Beat it:Michael Jackson

ブルースリーとか、フリオ・イグレシアスとかみたいに、マイケル・ジャクソンのことを小説に書けば、「高橋源一郎阿部和重、そして森島武士」みたいな流れになって、受賞できると思うっす。マイケル・ジャクソンじゃなくてフリオ、ってところがミソなんだろうけどさぁ…ポテチン。

●Five people to whom I'm passing the baton(バトンを渡す 5 名)

いまはどうしてもレイザーラモン住谷しか思い浮かばないっす。



きょう一日考えた結果が、id:throwSさんの物まねでいこう、ただそれだけでホンツに申し訳ないです…

二番目の自転車少年

ちょっと前に「真夜中の弥次さん喜多さん」をみました。それで、いま「真夜中の弥次さん喜多さん」についてなにか気のきいたおもしろいことを書けば、もっとこの「森島の学習」が注目されるようになって、その後サクセスストーリーみたいなものがあって、最終的にはなにかしら金銭的なものが発生するといいなという期待をこめて映画の感想を書きます。

いろいろ興奮したところがあるんですが、一番感動したのは全体的なことで、初めて映画を監督することになった宮藤官九朗先生が、映画的なおもしろさとはなにか、といったようなことを考えたというよりも、でっかい画面で豪華なテレビ番組(コント)をやるんだという強い意志を持って制作に臨んだのではないか(例えば、○○の宿、という形でテレビドラマのように区切りを付けているところなどから)と感じられた点です。そこがいさぎよくてかっこいいと思いました。テレビよりも映画のほうが上位にある高級なものだという発想は、どこから来てやがんだてやんでぇ、ということだと思ったんです。だからこの時点で、映画だけをみていろいろ思うというより、宮藤官九朗先生の姿勢がどうかという話になってしまい、映画と監督を切り離せなくなってしまっているわけですが、ぼくはこの映画については、監督というひとりの人間のテレビやお笑いに対する姿勢がとても重要な部分を占めているように思えて、また個人的には、映画に出てくる人物に感情移入するというよりも、監督に感情移入しながらみていたように思うし、そういうみかたをしたからこそ興奮したのではないでしょうか。
そこで、「真夜中の弥次さん喜多さん」の中の重要な要素だと思える監督の姿勢、さらに言えば監督のお笑いに対する姿勢についてみていくと、まず前半部分にみられた寺島進先生演じる警官と弥次さん喜多さんとのやり取りが、派手な衣装を身にまとっていながら素に近い会話をするおかしみ、という点でダウンタウン浜田先生に怒られるダウンタウン松本先生(ゴレンジャイとか)を思い起こさせるもので、その後に登場する「のびる金玉」や板尾先生などが「ダウンタウン的なお笑い」に属するもののように思いました。
そこからスタートして、最終的に「おなら」のようなもの、それを強引に「ドリフ的なお笑い」だと言うとすると、三途の川で研ナオコ先生が登場した理由もなんとなくわかるような気がします。ここでなぜ「ダウンタウン的なお笑い」→「ドリフ的なお笑い」という流れにこだわったかというと、ひとつには自分が高校生の頃、いわゆるシュールな笑いみたいなものは最終的には「ダッフンダ」に行き着くのではないかと考えていたため、もうひとつには、この映画が監督のなかにある笑いの歴史をロードムービーの形に当てはめてさかのぼるというものだったのではないかと推測しているためです。
そういった流れ全体を俯瞰してみたときに気づくのは、かなりギャグを詰め込んでいるけれど、ひとつひとつのギャグを取り出してじっくり吟味するとそれほどおもしろくなくなってしまうこと、逆に言えば、それほどおもしろくないギャグでもスピーディーに詰め込んでいけばおもしろくなるということ、この手法は「明石屋さんま的なお笑い」なのかなという気がします。ただ、それを指摘したところでどうにもならないし、それよりもこのひとつひとつのギャグがあまりおもしろくないところ、言い換えると、時間を置くと腐ってしまいそうなギャグを積み重ねている点、そして映画というよりもテレビ的な、こちらも時間がたつと腐ってしまいそうな点から、宮藤官九朗先生が永遠に腐らない不朽の名作を作ろう、とは思ってはおらず、むしろ積極的に腐ってしまいそうなものの中にのめり込んで行こうとする姿勢が垣間みられるように思い、そこからはうっすらと腐臭が漂うのかというとそうではなく、いつか腐るかもしれないがその分だけいまは新鮮、という印象があり、むしろいつか腐ってしまうことを恐れるあまり、腐ることのない表現をしようと努めた結果、最初から腐ってしまっているということのほうがよくあるような気がするので、そういった意味でも宮藤官九朗先生の姿勢は、いま映画を撮ることのむつかしさを思うとなかなかかっこよくて賢いのではないかと思えます。
そして、今回の映画だけでなく宮藤官九朗先生の作品全体に言えることだと思いますが、先生の姿勢にはどこか、二番目の自転車少年を思わせるところがあって好感が持てるというか、共感します。むかし「タイム3」というテレビ番組があり、その中で夏休みに自転車で日本縦断に挑戦する少年が取り上げられており、その道中での人との出会いや、つらいときも懸命に努力して乗り切る姿などが感動を呼んだわけですが、その後、その少年の姿をみて「それなら俺もやる!」といって同じように自転車で日本縦断を試みた少年がいたのですが、二番目の彼はわがままで、弱音ばかり吐いていて、なによりも二番煎じという恥ずかしさもあり、どうしようもない印象を受けました。ただその彼がジュースばっかり飲みながら、そのせいで横っ腹を痛めながら日本を縦断していく姿のほうが実は重要だったんじゃないかといまになって思えてきています。そこに自分の姿を重ねるのもなんだかまぬけですが、でもいま映画や小説に関わろうとした場合、どうしても二番目の自転車少年のような立場に立たざるを得ないだろうし、そのような立場ならではのおもしろさもあるんじゃないかと苦し紛れに考えずにはいられません。

四万十川料理学園卒

これまで「おもしろさ」という言葉の意味をはっきりと定義せず、わざと曖昧なままとりあえずおもしろいと書き、それからそのおもしろさが具体的にはどうおもしろいのかを考えてみるという作業をおこなってきたわけですが、その曖昧なままとりあえずおもしろいと書いているときに自分が何をもとにおもしろいと判断しているのかと考えたら、小学生の頃にみた「ごっつええ感じ」と「伝染るんです」がすべての基準になっているような気がしてきて、うすうすそうじゃないかとは思っていたけど、自分のあまりの普通さにどんな感想を抱けばいいのかよくわからないし、と言った時点で自分の普通さをあまりよろこばしいことだとは思っていないことはわかり、それを言い換えると自分が変わり者だったらいいのに!ということになり、その変わり者願望みたいなものがもう普通すぎることは、例えば職場には自分を含めて五人の渉外係がいるけれど、そのうちの二人は自身のことを一見やる気がなく、さぼったりだらだらしたりのん気にやっているように見えて、実は実績をしっかり上げてくる異端児だと思っているようで、五人中二人が自分を異端児だと思いたがっているということからも明らかで、異端児だと思いたい気持ちがそれほど特殊なものではない証拠だと言える。
整理すると、

  • ごっつええ感じ」と「伝染るんです」がおもしろい、ということがすべての基準になってしまっている(森島の)。
  • ごっつええ感じ」も「伝染るんです」も、多くのひとに愛されているにもかかわらず、その視聴者や読者が「本当のおもしろさは私にしかわからない」という気持ちを抱きやすいのではないか(森島も)。
  • 特に「ごっつええ感じ」の場合、ビデオテープを入手するのが困難でなかなかみれない、というものではなく、日曜の八時にテレビをつければ簡単にみることができたため、多くのひとがそれを目にした可能性がある(森島もみていた)。
  • もし、それを目にした可能性のある多くのひとがみな「本当のおもしろさは私にしかわからない」と、一度でも一瞬でも思ったことがあるのなら、それはどういう状況なのか(森島も含めて)。

ここまでは前置きで、本題は古井由吉先生の「杳子」を読んでおもしろいと思ったことについてです。最近なかなか小説を読む時間がなくて、読み始めたとしても集中力が続かなくて途中までになってしまったりして、たとえば「陥没地帯」なんかも、砂丘に生えているという植物が具体的には「ねぎ」だったらおもしろいかもとか思いながら挫折しました。でも「杳子」の場合はひさしぶりに集中力が続いて、おもしろく読めました。
すごくおおざっぱに言うと、「杳子=小説=病気」という感じがして、杳子という人物を通じて「小説はこうあるべきではないか」という古井先生の主張を読んでいるみたいだ、ああ小説はやっぱりこうでなくっちゃだめですよね先生と思いながら読みました。
片仮名で三文字の喫茶店の名前がわからなくなった、響きが違ってわからなくなった、とか、杳子が自分の家にある電話の位置をすごく細かく説明しようとするところとか、小説のおもしろさについてのヒントになりそうだという気がすごくして、「小説はこうあるべきでは」という主張であると同時に「こうあるべき小説」に近づこうとしている点が一番興奮した要素だったと思います。
そのむつかしさは、例えば片仮名三文字を実際に書いてしまって(仮に「ポプラ」とか)、その書いてしまった三文字を読者に「わからなくさせる」ことのむつかしさを考えるといかに大変なことなのかがわかります。
ただここで前置きの話に戻るんですが、ぼくが「杳子」をおもしろいと思った本当の理由は「キャシー塚本みたい」だったからじゃないのか…
「キャシー塚本」みたいに、コントの中には「病気」のひとが必ずといっていいほど登場していて、それがおもしろいと思うようになっているので、「病気」が出てこないとなんだか物足りない気持ちになることになっていて、「病気」が出てこないコント自体を想像することが困難な状況をどう捉えるか、これはもう「ごっつええ感じ」をみてきてしまったために超えることのできない枠なのか、それともコントというものは本質的に病気を孕むものなのか、本質的にって言ったってどうもこうもないとは思うけど。
そしてさっきの「変わり者」を「病気」に置き換えると、みんな病気になりたがっている可能性が高いように思えるし、それをもう一度「変わり者」に置き換えると、逆説的に、変わり者になりたがらない者が一番変わり者、病気になりたがらない者が一番病気、つまり健康こそ病気ということになって、健康なコントは果たして可能かというのが今ぼくが気になっていることなんです。
ごっつええ感じ」とはまったく異なるかたちのコントをみてみたいとずっと思い続けているけど、本当に異なるかたちのコントをみたらたぶんおもしろいと思わないでしょうね。そのときは、まずおもしろがり方から自分で作り出していかないといけないし、作り手の側になるとしたら、そのおもしろがり方を受け手側に教育していかないといけないので苦労が多そう。それには順序があって、すでに多くのひとに認められているおもしろさを少しずつずらしていく必要があるということは、なんとなく、うすうす自分でもわかってるんじゃないかとは思うんですよ、うすうすは。

あけましておめでとうございます


年が明けてから職場内で配置転換があり、転勤していくKさんに代わってぼくが渉外としてはじめて外に出ることになりました。それで正月休みが終わり、仕事がはじまってすぐに三日間で引継ぎ(集金先をまわって名刺を配り挨拶をする)を済ませ、それからひとりで外に出ました。引継ぎ期間は営業車の助手席に座っているだけでよかったのですが、ひとりになるとスーパーカブに乗らなければならず、とても寒いです。寒いし、車体がものすごく震えるので心配になります。スーパーカブよりも前には普通のカブがあってスーパーカブよりももっと乗り心地の悪いものだったりしたのでしょうか、カブの歴史についていますぐに調べようという気持ちはありませんが。
外に出るようになってから疲れてすぐに寝てしまうのと、仕事関係のマニュアル本を読まなければいけないのとでなかなか小説を読んだり書いたりする余裕がなくて悲しい思いをしてきましたが、今日、このままではいかんと思い立ち、小説に使うための写真を撮ったり、図書館で資料を借りたりしようと、大学生になったばかりの頃にはいていたリーバイスに足を通し、大学生の中ごろにバーゲンで買った緑色のセーターに腕と頭を通し、大学生の終わりごろロンドンに行く直前に買ったニット帽をかぶり、下着類はすべてユニクロで、自転車にまたがり出かけてきました。上や下にあるのがその写真です。
図書館では、「織田信長・七つの謎」「図説織田信長・男の魅力」「マイケル・ジャクソン 今世紀最大のポップスターの悲劇と真実」を借りてきました。小説に役立てばいいのですが……
書いている途中の小説はまだ45枚程度のところで、けっしてうまく書けているわけでもなく、書かれている途中の小説がぼくを駆り立てたわけではなく、ただこのまま毎日仕事だけしていてもつまらない、小説を書くために仕事しているんだ、ワイの扶養家族は小説や!と無理やり思い込むことにしただけですが、それでもその思い込みによって生活がすこしでもたのしくなればいい、なんとかたのしくなってほしいと期待しています。

それで書いている途中の小説についてなんですが、早稲田文学の一月号を読んでいたら新人賞の選考会で、改行がほとんどない、文章びっちりの小説よりも余白があったほうが、という話が出ていて、てっきり早稲田文学に出すなら改行なしびっちりじゃなきゃだめなんだろうと思っていた自分はなんだったんだとばかばかしくなりました。早稲田文学よりも新潮に出そうかと考えていたので、なぜ改行なしびっちりで行こうと思ったのかもよくわからないし、でもたぶん金井美恵子先生にあこがれて改行なしびっちりをやってみたかったというのが本当かもしれないし、とにかくこれからは余白の時代なのか、うすうすそうなるんじゃないかと思ってたよとも考えて、それならおもしろい余白の作り方はどんなものかということを意識するようになりました(とりあえず今回の小説は、もうびっちりで行きますけど)。
昨年末にみた「ソドムの市」という映画が、「おもしろい余白」について考えるヒントになるような気がしていま一生懸命思い出そうとしています。あの映画は、単純に安っぽさをギャグにしていると言えばもちろんそうなんですが、それだけでは終わらないおもしろさがあるような気がします。それはたとえば、安っぽいセットや衣装で大掛かりな、中身の詰まったことをやろうとするいびつさ、不安定さであったり、「映画美学校」を警察署に見立てることであったり、そこにおもしろさがあるのではないかと。見立てることのおもしろさは、目の前にある映像、「映画美学校」と書かれたドアをみつめながら、自分の頭のなかでそれを警察署に置き換える運動によるものではないか、もしかしたらおもしろさというものは「運動量」で計れるのかもしれないと思えてきました。たとえばおもしろさのひとつに反復があると思うんですが、同じことを繰り返されたとき、観客の頭のなかで、いま目の前にある光景からさっきみた光景へと行き来する運動が起こっているはずだし、反復されるふたつの場面の間にある時間が長ければ長いほど運動する距離が長くなるし、短時間で何度も反復されれば、それは反復横とびてきな運動量の増加につながり、したがって運動量が多くなるほどおもしろさが増すと考えることはできないかと思ったんですけど、べつに思わなくてもよかったような気もします。
余白のことに話を戻すと、「ソドムの市」はいろいろ「びっちり」詰め込んだその内容に対して、「安っぽいセットや衣装」「見立てること」などの余白が用意されていて、そういった意味で今っぽい余白のある作品になっているのではないか。

小説だと、芥川賞を受賞された阿部和重先生の「シンセミア」がそれに近いおもしろさを持っているような気がします(これもだいぶ前に読んだので一生懸命思い出します)。「シンセミア」のおもしろさは、阿部先生が大作家になり大作「シンセミア」を完成させたのではなく、大作家にならずに大作「シンセミア」を完成させたところにあると思うからです。「シンセミア」のおもしろさは、大掛かりな物語を「大掛かりな物語用」ではなさそうな文章、安っぽかったり、統一感がなかったりする文章をつぎはぎして作り上げているそのいびつさ、不安定さにある(その不安定さがとてもスリリングでたのしかった)とぼくは考えていて、だから「シンセミア」に喜びを見出せない人がいるとしたらそれは単にいびつなもの、不安定なものをおもしろがる傾向がない人なのだと思います。そしてぼくはなによりもまず自分がおもしろいと思える小説を書きたいので、なるべくこういったいびつさ、不安定さを取り入れるよう努力して、びっちりしつつ余白もあるものを目指すことにします。
ここ最近で一番興奮した小説は仙田学先生の「きみの中指の深爪の」で、あんなにおもしろい小説が書けたら本当に最高。「きみの中指の深爪の」を読んでいたときに、映画と小説との間にある違いがひとつ見つかったような気がします。それは場面転換についてで、映画において場面が切り替わるのと、小説において場面が切り替わるのとではまったくそのおもしろさが異なるということです。それは小説の場合は、文章において場面が切り替わるのと読者が頭のなかで場面を切り替えるのと、そこに時間のずれが生まれ、そのずれ、距離が運動につながり、おもしろさとなる、当たり前といえば当たり前のことなんですが、これを強く意識するといいかなと思いました。このおもしろさを生むためには、あまり改行せずにびっちり書いたほうが絶対いいはずで、「きみの中指の深爪の」はだから改行せずびっちりでもすごくいいんです。ネズミ捕りの箱の描写とかすごくおもしろくて、それはクイズのおもしろさに似てるのかもしれませんが。
これで、ここ最近考えていた小説のおもしろさについては全部書いたので終わります。

メリークリスマス


この「森島の学習」の読者層はおもに小学校低学年のみんなだとおにいさんは考えているんだけど、きょうはみんなにおねがいがあるんだ。みんなは、孫だよね。そんな孫のみんなへのおねがい。もうすぐみんなはおじいちゃんやおばあちゃんからお年玉をもらうよね、楽しみだね、やれソニーだ、やれニンテンドーだって、それはもうサンタさんがプレゼントしてくれたかな?
それはどうでもいいんだけど、お年玉、もらうよね。みんなにお年玉をあげるために、おじいちゃんやおばあちゃんがこの時期おにいさんの職場に押し寄せてくるんだよね。とくに最近、新紙幣になったから、新札を求めてやってくるおじいちゃん・おばあちゃんですごく混雑するんだよ、ほんとに病院の待合室か信金かってくらいに。おじいちゃんやおばあちゃんはみんなみたいに機械が得意じゃないから、ATMや両替機が使えないんだよ、だからおにいさんが全部案内しなきゃならないんだ。
そこでおねがいなんだけど、みんなからおじいちゃん・おばあちゃんに、「ぼく、おじいちゃん・おばあちゃんのぬくもりが染み込んだくしゃくしゃのお札のほうがうれしいよ(ここで人差し指で鼻の頭をこするのを忘れないで)それに、これからいくらでも手元にくるはずの新紙幣より、古いお札をもう一度ちゃんとみておきたいな」という具合に話しかけてくれないかな。そうするとおにいさん、すこしは仕事が楽になって、みんながとても楽しみにしてくれている小説の続きをがんばって書けるとおもうんだ。おにいさんは、キーボードを叩くたび、みんなの笑顔が目に浮かんできて、それはもうみんなの笑顔でパソコンの画面が隠れちゃって横からのぞきこんだりしながら書いてるほどなんだから、待っててね。
ちなみにおにいさんのクリスマスプレゼントは、アマゾンから届いた「挟み撃ち」だったよ。

あとがき

静男先生や美恵子先生の「話のずらしっぷり」が最近の主なおもしろがるポイントになっていて、自分もできるだけおもしろく話をずらしていきたいとは思っているんだけど、もっといろんな種類のおもしろさを、ともちろん思ってもいて、最近「神聖喜劇」と「言葉と物」を読み始めた。「神聖喜劇」については「一気に読むとクスリヤルヨリトベマスヨ(どこをカタカナにすればいいのかわからないからドラエモンみたいな表記に)」という噂をかなり前に耳にしていたのでやっと読み出した。読み出してすぐに、ああこういう種類のおもしろさなのかなと思ったのはたぶん「アメリカの夜」を読んでいたからだと思う。それにしてもこの細かさというかしつこさはすごい。「言葉と物」は冒頭からフーコー先生かましまくりで楽しい。「われわれは黙りこくったままおとなしく身動きしない大地に、分裂、脆さ、亀裂といったものを回復させてやろうというわけだ。大地は、われわれの足もとで、ふたたび不安に打ちふるえているのである。」という序文のかましまくった締めくくりのあと、第一部のはじめに「画家は絵から心もちさがったところにいる。」という描写からさりげなく仕切りなおすあたりでわくわくするし、「モデルに一瞥をあたえているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない」の「あるいは」がいいなあ、高級感あるなあ、なんかこう「今書いてまーす」って感じがして、「小説のことわかってまーす」って匂いを手っ取り早く出せるなあと思う。「あるいは」はほんとうに手っ取り早くかっこいい文章を書きたいときに使えると思う。
どっちも分厚いので読むのにすごく時間かかりそうだし、またしばらく森島の学習は更新されないままほったらかしになるような気が・・・・たぶんその間に小説の方をがんばって書いているんだろうと思う。

静男先生ありがとう、いつもおもしろい小説を書いてくれて・・・・・・

藤枝静男先生の『田紳有楽・空気頭』、これはおもしろいところが多すぎて、結局付箋をはれなかった。この小説のおもしろいところのうちのひとつをおおざっぱに言うと、読んでいるうちに「この小説はこういう小説だろう」という予想やイメージがどんどんずれていくところだと思う。

七月初めの蒸し暑い午後、昼寝を終えて外に出た。

冒頭の一文を読み、そしてその後に出てくる単語「台風」「庭木」「ユーカリの花」「枝」などを目にして、すぐに「自分の家の庭を舞台にした、私小説風の小説かな」というイメージが浮かんだ。もちろん、静男先生の小説を読むのは初めてではないので、なにか仕掛けてくるんじゃないかという期待はあるけれど、ここまでの部分では先に挙げたようなイメージをまず浮かべた。そのイメージが、一枚ページをめくってすぐに裏切られた。

ユーカリの硬い葉はかたわらの二坪たらずの浅い池にも沢山散りこんでいた。二、三分眺めて再び二階にあがると、いつのまにか書斎のまんなかに白シャツを着た小男が汗を拭きながらキチンと坐って待っていた。
「僕は昔で云えば与力の岡っ引きの、もひとつ末端の下っ引きと称する階級に属するスパイで滓見と申すものです。これから僕の処世術を、僕の副業とする骨董品の買い出しになぞらえて教えますから、どうか参考にして下さい」と云ったので感謝した。

ベッドに寝転びながら文庫本を眺めていて、この部分を読んだときには思わず起き上がった。これはすごくおもしろい。庭にあるユーカリについて描写したあと、そのユーカリについての憶測を挟んでワンクッション置いてからこの部分でがらっと小説の足場のようなところを変えてしまうからすごい・・・小説を書く/読むときに、まずそこに出てくる単語から、ある一定のイメージを勝手に作って書き進めていく/読み進めていくことになる―たとえば、金井美恵子先生の『夢の時間』を読むとき、冒頭の部分―

アイは眠りたかったし、空腹でもあった。夜明けから、ほとんど何も食べていなかったのだ。K街道のガソリン・スタンドで若い男が満タンにオイルを入れている間、彼女は熱い珈琲を飲みながら、ガラス窓越しに空を眺めていた。まだ東の空は明けきらず、ようやく白みはじめた青灰色の薄暗がりがあたりを包み込んで、アイはガラス張りの喫茶室の中で震えていた。

「ガソリン・スタンド」や「熱い珈琲」、「ようやく白みはじめた青灰色の薄暗がり」といった単語を目にし、その後ロードムービーのような状況について知らされたとき、海外の小説を翻訳したような世界、舞台としてはヴェンダース先生の映画に出てきそうな光景をなんとなく浮かべながら読みすすめた。そして「田紳有楽」のときと同様に、そうして勝手に浮かべていたイメージから一気にずれる瞬間があった。

老人ホーム養花園前バス停が、町と文化村間を走っているバスの折り返し点だった。アイは小さな木造の箱型の待合所のベンチに腰掛け、秋の陽ざしを浴びながら、小さな欠伸をした。待合所の壁には、黄色いビニール傘が三本ばかり下がっていて、壁には一から十番までの数字の小さな楕円形のプラスチック板がはってあり、それが傘の置かれるべき場所を意味しているわけだった。その上の方にプラスチックの板がうちつけてある。ビニール製の傘は文化村の自治会が備えつけたもので、白いプラスチック板には、次のように書いてあった。《みんなのために、使った傘は元に戻しましょう!!みんなの傘です。文化村自治会》傘は十本あるべきはずなのだが、今は三本しかなく、残り七本はあるべき場所に戻されていないようだった。〈共同体自治会の善意的行為なんてものは〉とアイは考えた。〈いつだって、内部から崩壊するもんなんだから!バス停に傘を置くなんて提案ほど下らないものはありゃしない。みんなの傘だって?!ヘッ!見てごらんよ。現に、七本の傘が紛失してるじゃない。文化村だって?自治会だって?〉

ここにはいろんなおもしろさがあって、「老人ホーム養花園」という単語でヴェンダース先生の映画に出てきそうな光景がいっきに崩れる快感(おもしろさ)があるし、「小さな楕円形のプラスチック板」といったような細かさがおもしろく感じるし、ここでアイの考えている内容から、アイという登場人物の内面のようなものがよくわからなくなるところがおもしろいし、なによりも「追跡者」がうんぬんといった話の流れからずれて、残り七本の傘がどうなるかをしばらく見守ることになるその話の展開の仕方、つまり横道にそれていくことのおもしろさがこの小説にはあふれているように思った。
静男先生の場合も同様に、「スパイ」の一語でずれた話がその後もひたすらずれていくそのずれっぷりがとにかく楽しい。ずれっぷりに加えて、正気な登場人物がひとりも出てこないところもすごくいいと思う。「と云ったので感謝した」というのは、おかしなことが起きた時に受身になるのではなく、かといってつっこみを入れるわけでもなく、誰もつっこまないからどんどん狂っていく。庭からはじまって、チベットの山奥の話になったときは、とんでもないところまで連れてこられてしまったという気分になり、その距離が長ければ長いほど、小説を読んでおもしろかったと言えるような気がする。丼鉢が自分の経歴を語りだすあたり、その内容などが「競売ナンバー49の叫び」を読んでいておもしろいと思ったところ、史実などをどんどん入れてくるおもしろさと似ているようにも思った。
また、「田紳有楽」のおもしろさは、「私は池の底に住む一個の志野筒形グイ呑みである。」みたいに一文で一気に空気を変えるその切断面の鮮やかさと、丼鉢の話の中で流れるようにチベットの山奥まで行ってしまうそのグラデーションとの二つの技術をあわせて使っているところにあり、おもしろい小説を書くためには、飽きさせないようになんでもやってやろうという気構えが必要だ!と思わされるほど、「田紳有楽」はどんどん予想やイメージを裏切って最終的にはウルトラマンとかそういう感じになってしまうところがほんとうにすごい!ああすごい!これから一年に一度は必ず「田紳有楽」を読むことにしようと思った。
「空気頭」も同様なずれっぷりが楽しめる小説だと思うけど、「田紳有楽」よりも形式がはっきりしているように感じた(「田紳有楽」も何度も読めばはっきりしてくるかもしれないけど、かなり変則的で複雑な作りのような気がする)。この小説でおもしろいと思ったのは、気頭術の手順が詳しくかかれている部分で、ここで「パントカイン」とか「ペニシリン溶液」とか「眼球壁」とか「視神経繊維束」などといった単語が並べられているところでひとつひとつの意味をはっきりと理解しなければいけないのではなく、物理的な事柄を列挙していくことが必要だったはずで、そのおかげで気頭術、空気頭といったものが抽象的な、なんらかのテーマを色濃く映し出すものとなるのではなく、あくまでも具体的な、物理的な問題として描くことが可能になっている点から描写の意味について考えることができると思う。でもやっぱり「空気頭」の一番おもしろかったところもずれっぷりで、病気の妻とのことを私小説風に書いていると思ったら途中から精力剤をどうやって作ろうかって話になって、おっさんがご飯にふりかけ掛けて食べてると思ったら人糞の粉だったとかもうすごくおもしろかった!レオナルド・ダ・ヴィンチの「人類交合断面図」の話もおもしろかった!

私の注意をひいたのは、ここに描かれた交接男女の生殖器から発する神経繊維が、男と女で異なった走行を示しているという事実でした。つまり男性のそれは亀頭から太い神経が出て脊髄を経て大脳に達しておりますのに、女性のそれは子宮底から出て脊髄を経て乳首に止まっているのです。このことは、レオナルドが、女性の性慾は脳とは関係がないと解していたことを証明します。(・・・)
その精緻さに於いて、ある意味で当時の解剖学の第一人者ヴェザリウスにも勝ると評価されている天才レオナルドが、何故このような不可解な過誤・肉体的差別を両性に与えたのでしょうか。彼はこの図によって、男性の性感は大脳内に終るに拘らず、女性のそれはただ第一性徴たる膣子宮と第二性徴たる乳首の間を往復するばかりで脳髄とは無関係であると語っているのです。
私は、彼の自画像と称せられるあの素描を頭の隅に思い浮かべました。下唇を少しつき出し、口の両端を気難し気に結んでチラッとこちらを見ている、取りようによっては人を小馬鹿にしたようなあの老人の表情です。
彼はその手記のなかで「人体に於いて醜の最たるものは生殖器である」と云って居ります。これを書いたとき、彼の頭に浮かんでいたものは女性の性器ではなかったでしょうか。そして彼が人体に於いて、実際に子宮と脊髄、脊髄と乳首とを結ぶ神経を発見したとき、彼はあの皮肉な突き刺すような眼でそれを写し取り、それによって自分の女性解釈を表白したのではありますまいか。
彼が生涯童貞であったという伝説を私は信じません。あの異様なまでの好奇心と、不抜の実証精神に貫かれたレオナルドが、性交を実験しなかったはずは絶対にありません。私は、この一枚の解剖図の誤りが、彼の実感によって裏打ちされたものであることを断言いたします。私はまさに百万の味方を得たようなものでした。

さっきから小説を書き写していたら、ただ読むだけよりも勉強になるような気がしてきたので長くなった。まずいろいろ情報と言うか、豆知識みたいなものがたくさんあっておもしろい。あと、こういった書きかたで歴史上の人物についてあることないこと書いてみたい。とりあえず織田信長豊臣秀吉徳川家康あたりのことを小説に書いてみたくなってきた。あと、この部分、途中からだんだんエモーショナルになってくるところがおもしろい。すごくうまいと思う。
「空気頭」の真中が丁寧な語り口になるところはあんまり真似しようという気分にはならなかったけど、終わり方はすごく無難だと思った。どうしても困ったらこういう終わり方にしようかなと。